小説

『ドッペルゲンガー』植木天洋(芥川龍之介『人を殺したかしら?』)

 自分とそっくりな顔が青ざめて、泣きわめいている。まるで血が通ってないような青。命が抜け落ちたみたいに。
 殺そうと思ってやったことなのに、死の予兆を目の前にして、私は怖くなった。
 それから、大人に知られたらすごく怒られる、と焦った。私はますます怖くなった。
「どうしたのっ?」
 大人の高い声が階段に響いて、すぐにダダダッと階段を駆け登ってくる音がした。私はぼうっとしてその音を聞いて、手にハサミを持ったまま立っていた。
「血がでているわ、保健室へいきましょう」
 先生だった。どこクラスの先生かはわからないけれど、女の若い先生だ。上は白のポロシャツ、下は赤のジャージ。白いスニーカー。
 先生はちょうど踊り場の手すりの陰になった私に気づかなかったようで、血を垂らして泣いている彼女の肩を抱いた。それからさらうようにして素早く階段を降りていった。その先に保健室があるから。
 私は踊り場に取り残されて、ひんやりとした空気にさらされた。ひんやりとしているのは、自分がヒヤリとしたからかも。大人に見つかった。怒られる。怖い。
 私は教室に戻るのも忘れて、踊り場の蔭に座り込んでいた。のろのろと時計をみると、ちょうど七十二時間が過ぎていた。
 結局私は死ななかった。
 それから何日経っても、私は先生に呼び出されることも親から怒られることもなかった。彼女は怪我をした原因についてなにも言わなかったのかな。
 もちろん個人的に私を呼び出すつもりもないみたい。いきなりハサミを突きつけられて、指を切られたから、怒っていたとしても、顔なんてみたくないよね。
 流れ落ちた血を見た時の寒気を思い出しているうちに、さらに数日が過ぎて、それでも私は死ぬことはなかった。食欲も少しずつでてきて、夜も眠れるようになった。何事もない日々が続いた。私は二度とあの子に会うことなく小学校を卒業した。

 そうして十年たって、私はまだ生きている。
 あの時、私はなんのために彼女を殺そうと思ったのだろうか。もちろん、怖かったからだ。死んでしまうのが怖かったからだ。彼女を一秒でも早く殺さなければ、という考えに夢中だった。
 ドッペルゲンガー。

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