小説

『亀裂』伊佐助(『浦島太郎』)

 龍の彫刻が施された壁の1つが1枚のドアのようにゆっくりと右に開いた。そこには黒くてグルグルと渦巻く壁がもう1枚。龍女はそこを指差す。
「ここが出口です。入ればそこは海の世界です」
「ありがとうございました。これで僕は堂々と生きられます」
 幹男は渦に近づく。さっそくそこに飛び込もうと準備した時、龍女は最後にこう言った。
「幹男さん、最後まで己の欲を出してはいけませんよ」
「はい!」
 あれどっかで聞いたセリフだな。幹男は空気を大きく吸い込んで息を止める。腰を深く下げ、両手を重ねて頭上に上げると、プールに飛び込むように渦巻く壁に思いきりダイブした。

 サーッ、スーッ、サーッ、スーッ。
 ブリーフ姿の老人は目を閉じて姿勢正しく砂浜で胡座をかいている。
 しばらくすると老人に人型の日陰が出来た。目の前には太陽を背負ったふんどし姿の幹男が立っていた。老人はふんどしの膨らみに目をやる。
「お前が行ってから今日で10日目。会えたのだな」
「はい、あなたの言っていた伝説は本当でした。海底都市も、龍女様も」
「お前が見た物はすべてマボロシ。誰にも話してはいかんぞ」そんな事は分かっていた。言ったところで誰も信じやしない。それより先祖である彼に渡さなければならない物を渡すタイミングを考えていたが、それがまさに今だった。
 左手にぶら下げた巾着袋。そこから龍女の使いにもらった死玉を取り出して彼に見せた。「これをあなたにと。でも舐めれば死ぬそうです。同じ血を受け継いだ僕としては死んでほしくありません。どうですか、とても狭い部屋ですが僕と一緒に暮らしませんか?」筋太郎は起き上がると、とても嬉しそうにこう答えた。
「幹男くん、嬉しい言葉だが私には行きたい場所がある。ようやく死んだ妻に再会出来る。喜んでその飴玉をもらうとしよう」そう言って幹男から死玉をもらうとそれを少し見つめた後に口の中に入れ、舐め始めた。
「またいつか会おう」そう言うとブリーフ姿のまま、幹男に背中を向けて遠くへ立ち去って行った。「筋太郎さん、ありがとうございました…」幹男はそれ以降、彼と再会する事はなかった。

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