小説

『亀裂』伊佐助(『浦島太郎』)

 老人は冷静な顔でこう聞き返した。
「少年のような心、今もあるか?」
 幹男は黙ってしまった。童貞だが汚れた社会を経験している26才の自分にその純粋さが残っているのか自信がなかったからだ。老人は優しい瞳で幹男を見つめ、「人生捨てる気持ちで海に飛び込んでみなさい」と言った。
 老人は立ち上がると幹男に背を向け、履いていたふんどしを脱ぎ始める。「私のこれはお守り代わりだ。パンツを脱いで裸になりなさい。下着を交換するのは命がけの賭けに出る者とそれを激励する者との、言わば儀式のようなものだ」
 幹男はケツ丸出しの彼のうしろ姿に驚いたが次第にその熱意に動かされ、立ち上がると服を脱ぎ捨て、白いブリーフを老人に差し出した。老人はうしろ姿のまま右手を後ろに伸ばし、それを手にするとすかさず履き、幹男に近づいて、脱いだふんどしを慣れた手つきで彼に巻きつけた。
「よし、行ってくるのだ」
 気合いいっぱいで海に足を踏み込む幹男。海水が彼の腰あたりに差し掛かかると遠くから老人は大きな声でこう言った。
「幹男くん!最後まで己の欲を出すなよ!」
「はーい!」
 いざ潜ろうとした時、ふと彼の中に疑問がよぎった。え?僕を幹男って呼んだよな?
 とにかく今は聞く余裕などない。戻ったら後で聞いてみよう。幹男は海中で軽くジャンプして手から飛び込むと海面から姿を消した。行き先は分からないが前へ前へ、下へ下へとバタフライの泳ぎ足でとにかく泳いだ。
 しばらくすると呼吸が辛くなってきた。うぅ…やばい、苦しい。勢いが良かった泳ぎ足が失速する。すると突然、履いていたふんどしが体を離れ、ヒラヒラと彼の前に進むと重なった両腕を縛るように巻きついた。なんだ?幹男がそう思ったのもつかの間、ふんどしは物凄い勢いで彼を引っ張りながら前に進んだ。ビューン!幹男はあまりの勢いに目を開ける事が出来なかった。早すぎる!誰か助けてー!

「大丈夫ですか?少し荒かったかしら」
「あのままでは死んでいたはずですから、多少荒くて良かったですよ」
 仰向けで倒れている幹男の近くで話す2人の女性。幹男は死んでいなかった。重たい瞼を開けようとするが、光がそれを邪魔して思うように開かない。うっすらとだが2つの人影があるのを確認した。
「うぅ…」

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