小説

『亀裂』伊佐助(『浦島太郎』)

ツギクルバナー

 サーッ、スーッ、サーッ、スーッ。

 海はいつものように呼吸している。時に強く、時に弱く。海は今日も生きている。透き通る塩水、雲1つない青空。「いつ見ても綺麗な景色だな」普段、幹男はこの景色を飽きもせずに新鮮な気持ちで見ているのだが今日は気分が乗らない。何度もため息をつきながら遠くをずっと見つめていた。

幹男、26才。普通のサラリーマン。
高収入の求人を見て1年ほど前に長年続けてきた新聞配達を辞め、生命保険のセールスに転職。しかし現実はそう甘くなく、月々のノルマが達成出来ず、課長に呼び出されては厳しいお言葉を浴びる毎日だった。
「キミ、そんなノロノロしていたらいつまで経っても成長しないぞ。亀だよ、カメ!」
幹男には歳も同じくらいの3人の同期がいる。勝と奈美と桜子である。彼らは幹男と違って数字が取れる。とくに勝は毎月職場に張り出される「先月の契約ランキング」の王様だ。彼の棒グラフはいつもズバ抜けて高く、それは周りの建物より遥かに高くそびえ立つ東京スカイツリー。ノッペリとしたお江戸顔の幹男は、女性客が多いアイドルフェイスの勝を尊敬していた。
 ある金曜日の事。日々の忙しさで仕事以外の交流がまるでなかった4人が時間を合わせて同期飲みをする事になった。
 それは奈美の一言から始まった。
「勝くーん、今夜、飲み会交えてセールストークの講習会やってくれない?」幹男はもちろん、桜子もそれを望んでいた。
「俺ので勉強になるかどうか。でも同期の為なら喜んで」勝は快く了解した。
 その夜、職場近くの居酒屋に集合した。入社して2回目の同期飲み。掘りごたつの狭い個室で乾杯をする4人。桜子は言った。
「保険って売るの大変だよね。毎朝起きるたびに、また今日も始まるのかーって気分が沈む」
「でもさ、調子良い月の給料ハンパなくない?」桜子よりポジティブな奈美。
「確かに欲しい物もまとめて買えちゃうしね。でも日々のプレッシャーもハンパないっすぅ。勝くんなんて相当貰ってるでしょ」桜子は勝に問いかけた。
「そんな事ないよ」と、高収入の勝は謙遜。幹男だけ同期の会話に入れなかった。何故なら桜子の言う“調子良い月”など入社して1度もなかったからだ。
「勝くん、休みの日って何してんの?」奈美の質問から勝のプライベート事情に会話が突入した。
「昼すぎに起きて、大体は買い物かな」
「彼女と?」奈美が再び質問した。
「今はいない。前の彼女と3ヶ月前に別れちゃって」それからも奈美と桜子の質問は続いた。どのくらい続いたの?どこで会った子?デートはどんな所行ったの?…。幹男は少々退屈した。勝先生の講習会で集まったはずが全くそんな気配がないからだ。そして、幹男が興味を持つ桜子の瞳がグイグイと彼に接近するのも不快に感じた。勝も酒がグイグイ入り、自分への質問責めに気持ち良くなったのか、よく笑うようになり次第にもう1人の彼が顔を出し始める。

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