小説

『女神の湯』西橋京佑(『金の斧』)

 一人、また一人と去っていく中、小籔太郎はそこから全く動こうとしなかった。むしろ、誰にもバレないようにほくそ笑みながら、その新しい風呂に入ろうとしていた。何故ならば、ライバルの爺さんが匙をなげたことで明らかに自分が優位にたったこと、2つ目に、気付くか気付かないかぐらいの大きさの文字で「あなたの願いを叶えます」と看板に書かれていることを見つけたためだ。
「7年通うもんだ」
 小籔太郎はそういう男だった。年に1度か2度程度訪れる、周りを出し抜く機会をいつも虎視眈々と狙っている。
「それ!」
 と一声、小籔太郎はドボンっとグロテスクなお湯の中へと飛び込んでいった。意外にも大きな音が立ったにも関わらず、周りの人たちはまるで聞こえていないかのように思い思いにお湯を楽しんでいた。

 一方、小籔太郎は溺れかけていた。
 そこはあまりに深かった。「足がつかないお湯とは、勝負にでたな!」という代わりにゴボゴボとお湯の中で喋りながら、どんどんと真っ暗な湯の中に落ちていった。
 お湯をかけども、どうにもならない。小籔太郎は恐怖した。上に向かっているのか、下に向かっているのか。そもそも動いていないのではと感覚が麻痺するほどお湯の中は真っ暗で、何も見えなくて恐怖だけが膨らんでいった。
「溺れて死ぬことだけは嫌だったのに…」
 小籔太郎は悔しそうに漏らした。そして、自分の口に手をあてた。先ほどまでとは打って変わって、しっかりと自分の声が聞こえていた。気がつくと周りが徐々に明るくなってきている。するすると自分の足元から光が差してきていたから、「自分はやっぱり沈んでいたのだな」と妙に納得していた。
 頭の近くまで明るくなると、そこは象牙色というか薄紫色というか、小さな泡ぶくが浮いたひどく薄いロゼスパークリングの中のようになった。周りを見てもよく分からないが、もう自分は沈んではいないことだけは自信があった。しかし、自信はあるが、どうにもこうにも小籔太郎は温泉に沈んでしまっている。
「すみませーん!」
 上に向かって大きな声で叫んだ。どうしたら良いか分からないが、とにかく誰かに気づいてもらわないわけにはどうしようもない。重力が強いのか、上に向かって泳ごうにも全く体も動かない。そもそも、本当にここはお湯の中なのだろうか?
「すみませーん!!」

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