小説

『吾が輩は神ではない』洗い熊Q(『吾輩は猫である』)

 何も特別な事ない、変哲もない最期。吾が輩が思うにだ。
 日付も、時刻でさえ、断言できる。それ程に明確な予知だ。
 平凡と言える最後。幸福と言えばそうだが、それが楽しみという訳ではない。
 先程に語った、予知を越えるという事と。
 予知が外れるのはわからないという事。この二つを考慮をしながら言えば。
 これから吾が輩は日に日にと弱り、目に見え衰えて悲痛な姿を晒すであろう。
 その姿を見て、旦那と幸恵はどうするのであろうか?
 予知など使わずとも吾が輩には見える。二人が取り乱し、心痛な面もちで看病してくれる姿を。そう断言出来るのも、あの二人との長い付き合いがあっての事だ。
 二人のその姿を目の前にして、吾が輩はどう思うのであろうか?
 先ず間違いなく感謝の気持ちを現すのは言えるが、問題はその先だ。
 必死な二人の姿を見て憂い、気苦労重ねるよりも先に、天に召されてしまった方がよいと思ってしまうか。
 必死な二人の姿に感慨し、もう少しだけ余生を延ばし、生きたいと願ってしまうのか。
 前者ならぽっくりと逝って仕舞うかもしれんし、後者ならその気になってもう一年。いや、もう数年と生きてしまって、ちゃっかりと寿命世界記録更新などとやってのけてしまうかもしれない。
 因みに世界記録は三六歳だとか。それはそれで、そこまで生きるのかと憂鬱になってしまうが。
 まあ、どちらにせよだ。
 寿命が数秒でも遅れようが早まろうが、吾が輩の予知が外れると言うことになる。
 そしてその可能性というが十分にあり得ると言えるから。いや、あの二人の力を貰えば越えるというのもあり得る。
 最後の瞬間に知り得るのかもしれない。予知が外れるという事を。
 それを知るのが楽しみなのだ、吾が輩は。

 全知全能であれば、この様な事に関心も持つまい、悦楽しまい。何故なら知っている筈だからだ。
 知らないから、楽しめる。
 楽しんでおるから、吾が輩は神ではないと言い切れる。いや、神は楽しめないと言うのはやや偏見か。
 ――もし、そのような上位の存在がいるであれば。
 こんな楽しみを吾が輩に与えてくれ感謝すら覚える。
 ありがたい、ありがたい。
 いや、その存在よりも先に言わねばならぬ者がおった。
 ――旦那と幸恵だ。
 本当にありがたい、ありがたい。

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