小説

『咳をしたなら』室市雅則(『咳をしても一人』尾崎放哉)

 温まった体にビールを流し込む瞬間が何にも変えがたい喜びだった。
 ただ今日は妻と別れてちょうど半年の日で少しセンチメンタルになっていた。
 だから、寒いけれど窓を開けて夜空を見上げてみた。
 星も月も出ておらず、ビールを一口飲んでため息をついた。
 そして、吐き出した量以上に吸い込んだ空気が肺まで届いた。
 冷気が柳田の奥に隠れていた寂寥感に触れた。
 急に寂しくなった。
 でも、そう感じる自分を認めたくなかった。
 咳をした。
 誰も聞いていない咳。
 誰の耳にも届かない咳。
 それで寂しさが霧散したように思えた。
 ただ、その咳はその夜の一番大きな音として響いた。
 すぐに静けさが戻った。
 もっと寂しくなった。
 目を瞑って再びビールに口をつけた。
 咳をしても一人なんだなー、誰も声かけてくれないんだなー、寂しいなーと思った。
 瞼の裏に妻と楽しく過ごした時間が蘇った。
 確かに楽しい時間もあったのだ。
 例えば、こびり付かないフライパンで不器用にも懸命に料理をしていた妻の後ろ姿。
 今でもその光景は良き思い出として思い浮かべることができる。
 想像すると野菜を炒める音が耳に響いてきた。
 懐かしい音。
 しかし、やけにリアルな音質で蘇っている。
 まるですぐそこで行われているようだ。
 訝しみ、耳をすませる。
 本当に聞こえている。

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