小説

『咳をしたなら』室市雅則(『咳をしても一人』尾崎放哉)

 柳田の視界にナップザックを背負った子供が入り、隣に座るのが分かった。
 この時間に子供なんて珍しいなと思って、隣に目をやる。
 体は子供だが、顔は柳田の少年が柳田を笑顔で見ていた。
 思わず驚きの声を漏らす柳田。
 幸いにもすれ違う電車の轟音でかき消された。
 柳田少年に声をかける。
 「君は俺かい?」
 頷く柳田少年。
 「もしかして、さっき咳を途中で止めたから子供なの?」
 柳田少年は再び頷く。
 「お名前は?」
 「柳田三十郎です」
 笑顔で返事をする三十郎。
 「三十郎・・・。七回したのか・・・。これから一緒に家に帰るかい?」
 三十郎は満面の笑みで頷いた。

 いつもの位置で八階の自宅を見上げる。
 明かりが灯っている。
 少しだけ笑みを浮かべ、三十郎とマンションに入っていく。
 玄関を開けると明かりが漏れて来た。
 三和土には沢山の同じ靴が並んでいる。
 「ただいま」
 昨日よりも大きな声が自然と出た。
 一人が部屋から顔を出した。
 「おかえり」
 それをきっかけに「おかえり」のシャワーが注がれた。
 ひしめき合った二十八人の柳田たちが柳田を迎え入れてくれた。
 自分の家に帰って自分が待っていることは不思議であったが悪い気はしなかった。むしろ嬉しかった。

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コメント
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    孤独な男が少しずつ孤独でなくなっていく様子にほっこりほのぼのしながら読み進めて、結末に見事に不意を突かれました。物事の終わりは案外こんな風に、何でもないことからあっけなく起こることなのかもしれません。(11月期優秀賞受賞者:木江恭)