小説

『ある日』辷(『もりのくまさん』)

 右、左、右、左、と規則正しく歩みを進める。彼女と私との距離が近づいて行った。彼女は呆れたような顔をして、天を仰いだ。髪から玉のような水が零れ落ちた。
 それから数歩もしないうちに、私と彼女はすれ違った。私は意図的に目を合わせまいとしたが、彼女は私のことをじっと見てきたので、その鳶色の目を意識せずにはいられなかった。
 何事もなく私たちはすれ違った。私は歩を緩めることなく前へと進んだ。
「待って」
 私はつい振り向いてしまった。彼女は私の少し後ろにいて、手に何かを持っていた。
「これ」
 そう言って彼女は私に近づくと、何かを手渡した。私はそれを受け取った。
 それは一本のボールペンだった。銀色のボディが雨の光を吸い込んで輝いている。私はこのボールペンに見覚えがあった。院へ進学する際、別れた彼女が記念としてプレゼントしてくれたものだった。
 別れた後に捨てたはずだった。何故この女性が持っていて、それを私に渡すのか。
「受け取れない」
 私はそう言って彼女にボールペンを押し返した。しかし、彼女は首を振って受け取ろうとはしなかった。
 ボールペンのひんやりとした感触が手のひらに伝わった。同時に過去の思い出が手のひらを通じて蘇ってくるように思われた。
 電話が鳴った。研究室からだった。一瞬ためらったが、電話に出ることにした。
 今すぐ研究室に来てほしいという内容だった。私は二つ返事で了承した。
「戻るの?」
 女性はまだ私のそばにいた。私は黙って頷き、彼女の横を通り抜けた。左右のリズムは崩れていた。
 数歩歩いたところで振り返ると彼女は笑っていた。

「こっちに来ちゃだめよ」
 何を言っているのかよく聞こえなかった。
 彼女は両手をクロスさせると、「だーめ!」と悪戯っぽく笑って言った。その太陽を一杯浴びた少女のような笑顔に私の心は揺り動かされた。私はボールペンを持つ手に力を入れた。雨はいつのまにか止んでいた。
 ボールペンをポケットにしまい込むと、私は一歩前に踏み出した。

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