小説

『ある日』辷(『もりのくまさん』)

 そんな疑問、地図で調べれば一瞬で解決することであったし、そもそも道は北に上るにつれ、整合性を失いぐにゃぐにゃと曲がり始める。そして山に突き当たり、いくつかの細い道に分岐し、そして消滅するのだ。そんなことは知っていた。五年も住んでいる街なのだ。頭ではよくわかっていた。しかし、私が求めているのは違った。
 私は一歩前に踏み出した。右、左、右、左、と規則正しく交互に足を踏み出していく。見慣れた景色が百七十センチの視点から脳内へ入り込んできた。二十四時間営業のスーパー、週に一度は食べるインドカレー屋、今ではすっかり利用しなくなったラーメン屋、学部時代の友人の下宿、友人は就職をし、今はもう他の人が住んでいる。現在から過去にかけての記憶が景色とともに思い出されていった。
 気が付くと見知らぬ場所に来ていた。振り返ると道はちゃんと真っ直ぐに伸びていた。
 始点と終点は知っていても、その途中のことは知らなかったのだと気が付いた。
 店がごちゃごちゃと立ち並ぶ風景は消え、代わりに落ち着いた住宅地が広がっていた。用水路を流れる水の音以外、何も聞こえなかった。
 さらに進むと、民家の数も減ってきて、それと同時に道がぐねりと曲がり始めた。それでも私は右、左、右、左、と交互に足を踏み出した。
 右手の甲にひんやりとしたものを感じて、空を見上げると頬にもぽつりと冷えた感触がした。そこから数歩もいかないうちに、細かい水飛沫が天から降ってきた。
 霧雨が視界を悪くした。道はすっかり整合性を失っていたが、それでも私は規則的に足を踏み出し進んだ。
 道の先に人影が見えたような気がして、私はそこで初めて足を止めた。
 一人の女性が雨の中、傘もささずに立ち尽くしていた。肩まで伸びた赤味がかった黒髪が雨に濡れて輝いていた。どこか懐かしい感覚がした。
 私が彼女に気が付くのと同時に、彼女も私に気が付いた。
 彼女は微笑むと、
「戻りなさい」
 と言った。
 私は彼女の忠告を無視することにした。私はただ先に進みたいだけなのであって、それを止める筋合いは彼女にはなかった。

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