小説

『戻らない船』和織(『クサンチス』)

 我が主の妻が掃除をしにやってきたのは今日の昼だった。彼女は入口のドアと部屋の窓を開けて掃除機をかけ始めた。少しして、部屋にペットの犬が入ってきた。妻は犬を追い出す際に、棚に掃除機をぶつけた。大した衝撃ではなかった。それがたまたま、エリィのいた棚で、たまたまガラス戸が開いていた為に、落下した。
「あ!」
 妻は声を出して落ちてくるエリィを受け止めようとしたが、逆に弾く形になって、エリィは棚の枠の固い部分にぶつかって、さらに落下し、砕けた。一部始終を見ていた我々は、皆徐々にインクを注ぎ込まれていくように重く、息苦しくなっていった。恐ろしさで思考が黒く塗りつぶされ、しばらく何も考えることができなかった。そしてやっと事実が飲み込めてきた頃、私の頭にまず浮かんだのは悲しみではなく、「こんな結末なのか」と、そんな言葉だった。あの白桃の頬も、なぞる指を誘う首元も、白く滑らかな肩も、弾力と柔らかさを兼ね揃えた形の肢体も、バラバラになっては、もうただの「砕けた陶」だった。どんなに美しくても、何かが無くなるときはこんな風に、一瞬であっけなく静かなものなのだ。その事実が、芽吹くように私に宿った。
 ふとエリィの愛人であった脇役の彼に目をやると、塗装が剥げかけているのでは?と勘違いするくらい表情が消えている。その様子に、私は心底ほっとした。脇役に、ということではなく、あんな風にならなかった自分自身に、だ。私にはこの特注ケースという檻があったから、全てを見渡し、本当を見ることができた。だから彷徨う船に乗った思想を見送って、ただ遠くからそれを眺めているだけでいられた。エリィという女は、我が主が思うように「ただただ美しいばかりの妖精」でも、伯爵が思うように「馬鹿でかわいらしい女」でも、脇役が思うように「本当は聖女のように綺麗な心を持った女」でもなかった。私は、我が主からの視線だけは我慢がらないと思っていたエリィを知っている。伯爵の前でわざと馬鹿なフリをしていたことも、脇役の前ではきっと優しい女を演じていたであろうことも、そのせいで自分自身がわからなくなって、帰り道に涙を浮かべていたことも、ただずっと客観的に彼女を見ていた私だけが知っていた。実のところエリィは、ただの我儘でしたたかで弱い女だった。だから私には、先ほど我が主が自分の妻へ振りかざして見せたナイフの思考も、この先に、伯爵が持つ自暴自棄の可能性も、脇役が持つ絶望の可能性も、ない。 
 我が主が、突然深く息をついた。妻を叩いた手をじっと見つめ、呆れたような表情をする。どうやら、叩いたことをようやく後悔し始めたようだった。そしてもう一方の手の中の陶の破片を見つめる。
「これじゃもう直せないな・・・」

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