小説

『戻らない船』和織(『クサンチス』)

 彼女の話をしよう。エリィは自分が美しいということをよく理解し、その美しさを、新体操の選手がリボンを操るようにうまく使いこなせる女だった。天使の容姿から繰り出される仕草は魔的で、一瞬でも彼女に惹かれれば、両目を釣り上げられたも同然だ。男女問わず、その視線は誘惑によって完全にコントロール下に置かれ、エリィの玩具になってしまう。しかしそんな遊びを楽しみつつも、エリィにはちゃんとした恋人がいた。「伯爵」の愛称の、ある悪役フィギュアだ。伯爵はエリィ同様、目を引く魅力的な人形で、つまり二人は、一番人気同士の面白くもないカップルだった訳だ。伯爵は私と相反する立場の悪役でこそあるけれど、その立ち振る舞いは紳士的で、悪い紳士というのがたまらないのだと、皆言っている。まぁ、とてもお似合いの二人だったけれど、残念ながらエリィを失った伯爵は今、自分の値打ちが落ちたことを知ったときよりも酷い顔をしている。その姿は哀れであるが、幸せな男だなという感想も抱かせる。それは、私しか知らないある事実のせいだ。
 私は、この部屋にある人形の中で最も値が高い。だから我が主は、私の為に専用のケースを特注で制作し、ケースを密閉してその中に私を閉じ込めた。そう、私はここから出ることができない。皆のように、夜な夜な開かれるパーティに参加したり、ガラス戸を開けて好きな相手のことろへ行ったりすることもない。全てが見渡せるこの場所で、ただ傍観するのみだ。しかしだからこそ、知ることになった。エリィが、皆が静まり返る時間帯に、音もたてずスケートを滑らせ、伯爵のもとから、ええと、名前が出てこないが・・・ともかく、ある有名な映画に出てくる脇役のキャラクター、その彼のもとへ行くのを、私はいつも見ていた。そしてケース越しに私が見ているのを、エリィは知っていた。だからときどき立ち止まり、私をじっと見返してからウィンクをして見せた。そうすれば、私がそのことを誰にも言わないだろうと思ったのだろう。そして結局私は、今でもそのことを誰にも話していない。しかし、それは彼女の為ではない。彼女はもちろん魅力的だったし、秘密の共有というのは楽しいものだった。だが私には、その場で一番値の高い者には、その場の秩序を保つ責任があるのだ。だから余計な騒ぎを起こすような言動は決してしない。しかしながらその秩序が、今回の悲劇へと続く道を開いた。
 エリィは昨夜、脇役のところから自分の場所へ帰ったとき、ガラス戸を閉めた。しかし実は、そこは持ち主によって閉め忘れられていてので、開けたままにしておかなくてはならなかった。本人すら気づかないようなことかもしれないが、全てあるように正しておかなくてはならない。私たちの方から、人間の生活に物理的に関わるというのはあってはならないことなのだ。だから私は近くの者に声をかけて起こし、ガラス戸を開けておくように指示した。もし、このとき私が違いに気づかなければ、もし、気づいても面倒がって指示を出さなければ、もし、そもそも我が主が戸を閉め忘れていなければ・・・。こういうとき、こういった無駄な考えはぐるぐると思考にまとわりつくものだ。しかし「もし」という言葉の意味が生きているのは未来だけ。過去へ向けてみても、ただ影が影に重なるだけだ。 

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