小説

『七分の六番目の河童』園山真央(『河童』芥川龍之介)

 そのとき頭に浮かんだのが、「GOD IS LOVE」の看板だった。
 私は鞄を掴んで家を飛び出すと、教会のある駅まで急いだ。過去に私に尋ねたであろう者に問い返したかった。なぜ、産まれてこなければならなかったのか。なぜ、ふにふにと柔らかい赤ん坊を次々この世に送り出すのか。彼らはあまりにも弱すぎるのに。私はあまりにも不適応なのに。
 しかし私は、降りたホームに立ったまま、電車が三台通り過ぎるまで、じっと看板を見つめたきり、身動きができなかった。〈片言のオプション〉の嘘の匂いが、私の足を止めていた。帰ろう、反対側のホームに並び直した私は、思いがけず正面に仏像のポスターを見た。説明は〈弥勒菩薩半跏思惟像〉。一切衆生を慈しみ、救済すると言う…。

 私はその足で京都へ向かった。慈しみ。慈しみだ。必要なのは片言の〈愛〉ではない、〈慈悲〉だった――。きっと本当は、神の愛も、御仏の慈悲も、伝えたいことは同じなのだろう。だけど、今の私に必要なのは慈悲だった。七分の六番目の河童をも許し、受け入れ、憐れんで下さる、御仏の慈悲だった。
 閉門前に滑り込むようにしてお寺の宝物館に飛び込んだ私は、本物の弥勒菩薩像を前にして、するすると涙を流した。弥勒菩薩は静かだった。私は何も尋ねなかった。尋ねなくても、ここまで来て分かったことが一つある。もし今、御仏が動きだし、「あなたは選んで良いのです」と尋ねて下さったとしても、私はまた、時間内に答えを出せないだろう、ということが。
 作務衣を来た係員が、申し訳なさそうにそっと近づいてくる。
「そろそろ、閉館のお時間です」
 私は頷いて涙を拭い、お礼を言ってお寺を出た。作務衣の人は一体何があったのかと、聞きはぜずとも気の毒そうに私を門まで送ってくれた。選べない私は、生きなければならない。選ばなかった者は、生きなければならない。例えなにが幸せか分からなくても。人がなんのために産まれ、生きていくのか分からなくても。
 帰りの新幹線に乗り込んで、携帯を見ると、またLINEにたくさんのメッセージが届いていた。殆どが飽きもせずに赤ん坊の写真だ。私には分からないけれど、皆にはかわいくて仕方がないらしい。産まれてきたのだ。彼らは。選ばずに。あるいは、選んで。
 メッセージの一番最後は写真ではなく、美穂ちゃんと彩さんからのメッセージだった。
「慶ちゃん、来週は来られそう?」
「待ってるよー」
「行きます!」と打ち込んで、送信ボタンを押した。東京に向かい、新幹線も動き出す。

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