小説

『七分の六番目の河童』園山真央(『河童』芥川龍之介)

 会社に入ると、研修の初日にいきなり「かわいいね」と声をかけられた。思わず顔をしかめながら振り返ると、確か入社五年目だという研修担当の先輩がにこりと笑った。「はぁ…」と生ぬるい返事を返し、同期たちの群れの中に逃げ込む。「あの人、誰だっけ?」と手近な子に尋ねると、「伊藤さんだよ」と教えられた。伊藤さんはまだじっとこちらを見ていた。
「何かあったの?」
「いや、別に」
 そう答えて、群れと一緒に昼食を食べに外へ逃げた。伊藤さんはその後もなんだかんだと声をかけてきたが、三ヵ月の研修の最終回に「なにか困ったことがあったら、お兄ちゃんだと思ってなんでも相談してね」と言われた際、「配属先が違うようなので、まずは自分の部署の先輩に相談していきたいと思います」と答えたら、それきり、ぴたりと静かになった。冗談じゃない。兄などこれ以上、増えてたまるか。
 翌日から同期の群れは散り散りになり、それぞれ自分の部署へ行く。チームは違えど、大概が二、三人ずつ同じ部署に入る。だが、私の配属先の新人は私、一人きりだった。柔和な顔をした佐々木部長が気を遣い、「ちゃんとした歓迎会は、また今度開くからね」と言いながら、私と年の近そうな派遣さんを何人か誘ってお昼に連れて行ってくれた。
 佐々木部長がよく喋る人だったので、部長や派遣さんのお喋りの相槌役に徹していたら、社内に戻る道すがら、部長にそっと声をかけられた。派遣さんたちは前を歩いている。
「君はあんまり、自分からは話さないんだね」
「そうでしょうか?」
「伊藤からも、無口な子だと聞いているよ」
「そうですか」
「伊藤、良い男だよね」
「…そう、かも、しれませんね」
 部長はぽりぽりと耳を掻いて、「観察することも大切だけど、気を付けていないとね、観察ばかりしていると、いつの間にか外側の人間になってしまうよ」と言った。そこで派遣さんたちに追いついた。ちょうどエレベーターのドアが開く。乗り込んで〈開〉のボタンを押しながら、一番人懐っこい派遣さんが「また連れて行ってくださいね、部長」と言った。にこりと頷いた佐々木部長と仕事をしたのは実際、ほんの半年きりで、部長は年が明けた一月末に花束を受け取り定年退職した。送別会の最後、駅前での解散際、百合の花の向こう側から「頑張ってね」と手を振ってくれた姿が今も残っている。

 翌日の土曜日は快晴で、早苗さんの結婚式があった。前日の飲み会からまだ少し重たい胃を引きずって会場に着くと、臨月から茶道を休んでいた律子さんが、丸々とした、もっと重そうな赤ちゃんを抱きながら立ち上がり、「慶ちゃん!」と懐かしい満面の笑顔をくれた。私がそのふにふにした生き物の頬を突いていると、後から来た遥と美穂ちゃんが「かわいい!」と声をあげ、「抱っこさせて下さい」と赤ん坊を取り合った。百子さんと彩さんも着くなり、それぞれ抱きたがる。場所を譲って少し離れた私は、彼女たちを眺めながら、赤ん坊を囲む人の笑顔はどうやらいつもよりも明るく、大きくなるようだとぼんやり考えた。

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