小説

『犬が桃太郎の名を呼ぶ話』月山(『桃太郎』)

「島に行くのは、名を捨てることになる。でも、村に戻ることもできない。あそこの人達は、充分僕に優しくしてくれた。わかるだろう? ただ捨てるだけなら、赤ん坊の頃にどこかに置き去りにすればいい。持て余すような存在である筈の僕を、わざわざ大きくなるまで育て続けたんだ。自分で生きていけるようになってから外に出すんだ。優し過ぎるじゃないか。そんな、持て余すくらいの優しさを貰っておきながら、戻ることなんてできないだろう」
「桃太郎さん」
「島も村も駄目だ。そうしたら僕に行き場はない。一人でこのままどこか知らない場所まで旅をしようかとも考えた。けれど僕は、一人では寂し過ぎると思ってしまったんだ。今までが楽し過ぎたんだよ。自分がいつか捨てられるのだと知ったあの日、おばあさんは何も気付かず僕に食事をつくった。知ってしまったことを言い出せず僕は米を食べた。あたたかかったんだ。人の炊いてくれた米はあたたかいんだ。ほっとするんだ。ほっとしてしまうんだ。今更この人達と離れられないと思った。僕は、僕はねえ。一人じゃ生きていけないようなんだ。寂しいんだ。あの村での生活は、楽しかったんだ、幸せだったんだ。あの村が好きだったんだ。村で貰った、桃太郎という名を捨てたくない」
「桃太郎さん」
「村には戻れない。島に行って名を捨てるのも嫌だ。一人旅は寂し過ぎる。もうどうしようもないんだ、駄目なんだよ、もう」
「桃太郎さん、お供がいるのは一人旅とは言いません」
「……お供」
「きびだんごはなくとも、お供しましょう」
「あの、聞いていたかい? 僕はずいぶん語ったと思うけど、とにかく島に行く気はないんだよ? 君は島への案内人だろう?」
「桃太郎さん、かつて鬼退治に行った最初の桃太郎、彼のお供が私であると思いますか」
「……鬼退治は、ずっと昔の話だろう」
「そう、あの時お供にいった犬はとうに寿命で死にました。桃太郎さん、私はその子孫なのです。子孫がいるのです。それも私一匹だけではありません。桃太郎さん、私の親は一度に六匹産みました。桃太郎さん、私の親の兄弟が産んだ子もいます、私の姉が産んだ子もこれから大きくなっていきます。桃太郎さん」
「うん」
「案内役の犬は、私だけではないのですよ。家族や親戚がまだうようよ残っています」
「うようよ」

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