小説

『BUGS CAPITALISM』澤ノブワレ(『変身』フランツ・カフカ)

 人間だったころは、ゴキブリなど嫌悪の対象でしかなく、見つけるなり殺虫スプレーを必要以上にプッシュして駆逐していた。そしてその度に、「ああ、こんな汚い虫けらに生まれなくて良かった。人間の目を恐れながらコソコソとしか暮らせないなんて、俺はゴメンだ」と思っていた。だがどうだろう。実際に自分がゴキブリになって生活してみれば、カサコソと縦横無尽に動き回り、適当な時間に食べ、適当な時間に寝るというその自由を謳歌しているのだ。そして何よりも彼に安らぎを与えていたのは、周囲の目からの開放であった。中間管理職になりたてのころ、部下に厳しくして上司の評判を上げれば、周囲からは「上司の目ばかり気にして」と陰口を叩かれた。部下に甘くすれば、今度は上司から罵声が浴びせられた。板挟みのストレスから、彼のマネジメントは日に日に苛烈になり、ついには部下のほとんどを虫化させてしまったのである。思えば自分は大声を張り上げて、部下にあらん限りの罵詈雑言を浴びせて、自分の矮小さを誤魔化していたのかも知れない。人目を気にしてコソコソと生きていたのは、人間だったときの自分の方なのだ。
――暮来たちに、会いたい。
 課長は考えた。上司ではなく、一匹の虫として、上も下もなく、彼らと話がしたい。今までのことを謝ろう。損得も利害も何もなく、純粋に話し合って馬鹿笑いできたなら……。
――社員ではなく、一匹の虫として。否、一人の人として。
 彼は排水溝から這い出ると、暮来のアパートへと向かった。虫になって一週間、人間であった頃の経験を活かして、出来るだけ人目に付かない安全な場所を選んで生活してきた。自由だとはいっても、今の彼はゴキブリ……人類にとっては敵なのだ。しかし、彼を突き動かした衝動は、それを忘れさせるほどに強く、焦燥感を伴っていた。
 陽光が照り付ける中、やっとのことでそのヤマトゴキブリがかのアパート前に到着し、ブロック塀から突き出た木の幹に、一匹のカナブンを見とめたときである。
「ぃぎゃあぁぁ!ゴキブリよ!何なの、ぁの大きさ!怖ぃ怖ぃ。早く殺してよぉ。」
「ぅわぁ、気持ち悪ぃ!よーし、今に見てろ。ぶっ殺してやる、クソゴキブリめ!」
いかにも頭蓋内の密度が低そうな男女の声が聞こえ、彼は危険を察知した。しかし時既に遅く、隠れる場所などどこにも無かった。虫化してから今まで特に必要に駆られることも無く、飛ぶ練習もしていない。彼は必死に歩く速度を速めたが、これまた安穏とした生活を送りすぎたせいか、ゴキブリ特有の恐るべき逃げ足さえ発揮できなかった。
 そして、彼の薄いキチン質の外骨格は、無常に投げつけられた冷たいコンクリートブロックに押し潰されたのである。
「ザマーミロ、このノロマゴキブリ。俺の彼女に恐い思いさせやがって!」
「キャー!一発命中!カッコぃぃ!」
「てぃうか俺、ヒーローじゃん。こんなでっかい害虫がぃたら、一般市民が安心して生活出来ねーしぃ。」
「キャー。ヒ・ィ・ロー! ヒ・ィ・ロー! アタシ、ヒ・ロ・ィン!」

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