小説

『BUGS CAPITALISM』澤ノブワレ(『変身』フランツ・カフカ)

 その異様な光景に、課長は意味不明の罵詈雑言を途中で飲み込み、呆然と立ち尽くす。
「暮来……。」
 彼は手に持っていた大切なモノを落とすように部下の名を漏らした。そして窓から飛び立つ暮来の尻をしばらくボンヤリと見つめていたが、フラフラと踵を返し、暮来のアパートを後にした。

 課長が激怒した原因は、単に暮来のサボタージュだけでは無い。その実、彼は彼で追い詰められていたのだ。なにせこの半年で、課内にいた入社3年以内の若手が続々と虫化し、会社に来なくなっていたのである。最近では勤続5、6年の中堅社員や、仕事バリバリの10年選手までもがチラホラと虫になり、彼の管理する営業部は空席だらけになっていた。そんな中、理不尽な罵倒を受けても文句の一つも言えずに働く暮来のような存在は、面倒な仕事を押し付けるのに持って来いのロボットであり、しかし同時に頼りにしていた存在でもあった。暮来がいなくなるということは、ストレスの捌け口が無くなると同時に、仕事が回らなくなることでもあった。だから彼は、暮来が虫化したことを信じたくなかったのだ。
 ブラック企業、全人格労働、仕事が原因での自殺。安定、やりがい、社会貢献などという甘い言葉で労働者を誘い、網に引っ掛かったら潰れるまで使い潰す。労働環境の問題が表面化し、深刻化していく事実に、資本主義大国ニッポンは目を瞑った。それどころか、クソの役にも立たない一般市民の労働環境よりも、税金の掛からない御小遣いをくれる企業資本家との癒着を優先した政府は、労働基準法の大幅な緩和を強行したのである。
――ワークライフバランス?何それ、おいしいの?
 36協定云々の次元ではない。「法定」労働時間、「法定」休日という概念は消え、企業の利益のためなら労働者を殺してもいいという風潮が当たり前になった。「臭いモノに蓋」どころではない。「臭い」という概念そのものを社会から封殺したのだ。その結果、人間であることを放棄し、虫と化す若者が増えたのは当然の成り行きだった。そして残された人間達には、さらに過酷な労働が強いられ、「仕事第一、会社第一」の皮を被っていた各企業の「エリート」社員達の中からも、虫化する者が現れ始めている。今や街には、恐らく元は人間だったのであろう巨大な虫達が、どこに行っても見られるようになった。

「ヤバー!樹液ウマー!」
 虫化してからというもの、暮来の生活はまさにパラダイスだった。日がな一日アパートの庭にあるクヌギの幹にしがみ付き、樹液を啜り、青空の下で何も考えずに過ごす。社畜としての日々を送っていた頃には夢のまた夢と思っていた生活が、今まさに流れていた。最近では彼と同じ巨大な躯を持った虫達が多く見られる。彼らも自分と同じように、日々に絶望し、虫になることを選んだのだろう。同じ木に樹液を求めて来る彼らを、暮来が追い払う事は無かった。彼らは自分と同じ被害者なのだ。辛い思いをしてきた分、助け合って穏やかに生きることが何よりの喜びになる。そして何より、独り占めは良くない。寡占への渇望が資本主義を生み、格差を生み、ブラック企業を生み、ついには地獄のような今の社会を生んだのだ。だいたい資本主義というものは……

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