小説

『母岩戸』室市雅則(『天岩戸』日本神話)

 まとめ買いしてあったペットボトルの生ぬるい茶をダンボールから取り出し、一口飲むとパソコンに向った。
 何もしなくても腹が減った。
 そろそろ夕食が運ばれて来る時間であるが、今日はどうなるか不安があった。
 横目でディスプレイに表示される時計を見て、ドアを確認する。
 しかし、敦子が持って来る気配を全く感じない。
 十五分が過ぎた。
 この暮らしを始めてから、初めてのことである。
 これまで敦子は旅行に出ることもなく、パート先の仲間との飲み会の時でさえも浩一に一声かけ、早めの夕食として準備し、運んでくれていた。
 仕返しだと思い、浩一は部屋を出て、転がっているペットボトルを拾うと階下に向った。

 ダイニングキッチンでは家族が楽しそうに食卓を囲んでいた。
 しかも今日のメニューは浩一が大好きな唐揚げであった。
 そして、浩一が姿を現した時、一同の動きは止まったが、それは一瞬だけでもはや「いない者」として無視をされ、家族の時間に戻った。
 「俺の飯はどうした!」
 浩一が吠える。
 「あ、ごめんなさい。そんな時間ね」
 敦子が立ち上がりかけると秀樹が止める。
 「母さん、こんな奴に飯なんてやらなくて良い」
 浩一が秀樹を鋭く見やる。
 「そんなこと言わないで。もうあんなことしないわよね。浩一には浩一の考えがあるんだから」
 敦子が椅子から立ち上がる。
 「考えなんかあるもんか。もう三十だよ。何も考えていないよ。このバカは」
 秀樹はビールグラスを持った手で浩一を指差した。
 それを受けて浩一はこめかみに青筋を立て、手にしていた小便入りペットボトルをぶん投げた。
 ペットボトルは無関心を決め込んで、テレビに目線をやっていた彩の顔面に直撃し、フローリングの床に転がった。

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