小説

『光にゆく羽音』柿沼雅美 (『冬の蠅』梶井基次郎)

 広告がない広告がない、という気持ちと、降りなきゃ降りなきゃ、という気持ちがせめぎ合って、ドアが閉まる寸前に、降りなきゃあ! と叫んだ僕を、知らないおじさんが電車の外に連れ出してくれた。
 僕はびっくりして、おじさんに、降りなきゃ、降りなきゃ、すみません、すみません、と謝った。おじさんは、いいからいいからもう降りてるから、ともう関わりたくない用な表情をして階段へ早足で行ってしまった。
 いつもと同じシャッターを降ろしたカステラ屋の前を通り、昨日と同じメニューのラーメン屋の前を通り、ずっと同じ形の歩道橋を渡り、ふたつ目の電信柱を曲がって、家に付いた。
 「翔吾! もう、どこ行ってたの!」
 母親がキッチンから出て来た。
 「し、渋谷」
 「知ってるわよ、さっきおまわりさんから電話があって、何かあったら相談してくださいって、もう、なんであんたはいつも普通にしていられないの、毎回毎回どこか行ったら何かしてきて。やればちゃんとなんでもできるんだからね」
 分かっている。自分が聞きたいことや素直に感じたことを言っても普通じゃないことを子供のときから感じていた。
 「ごめん」
 「もう慣れたわよ。それより、進路表出したの? 来週進路面談でしょ、もう高2なんだから将来のこともちゃんと考えないと」
 あ、忘れた。と思う。出そう出そうと思っていて、朝のホームルームでも言われて、昼休みに出してしまおうと思っていたのに、昼休みはなにをしていたんだっけ、あ、そうだ、体育館の日陰でカラスが歩いているのを見ていたんだった。
 「だいじょうぶ、ちゃんと考えてるよ」
 「大学でも専門学校でもなんでも、自分で決めればお母さんもお父さんも何も言わないんだからね。あんたにはちゃんとした道を考えるっていうことをしてほしいだけなのよ、ほんとにそれだけなのよ」
 さっきまで怒っていた顔が哀しそうに変化して、なんで泣きそうなの、と聞きたくなるが、それがまた母親を悲しませるのは何となく経験で分かっていた。
 だいじょうぶだいじょうぶ、とわざとなんてことのないように言い、自分の部屋に入った。すぐに机の引き出しから、コーヒーチェーン店のホット用のカップを取り出した。親指の爪の先みたいな大きさの蓋の飲み口から中を覗くと、蠅が底でじっとしていた。

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