小説

『カンダタの憂鬱』poetaq(『蜘蛛の糸』芥川龍之介)

「やるじゃねぇか」
 カンダタがニヤリと笑いました。そして「さあ、来い来い」と御仏の登頂を悪意たっぷりの微笑で待つのでした。なるほど、あの時のあんたの気持ちが分かる気がするぜ……。
 その時です。片手でぐんぐん迫られるお釈迦様の下を、罪人たちがアブラムシのように連なり登ってくるではありませんか。しかも、そんな輩に御仏というおかたは「さあ、あたしに従(つ)いておいで!」と空いた方の腕で手招きも辞されません。まさにお慈悲の人です。
「なななに言ってやがる!」
 カンダタは怒鳴りました。なにが、「従いてこい」だ。せっかくの極楽がまた地獄じゃねえか!
 カンダタは糸を離しました。すると、どうでしょう。お釈迦様は罪人ともども血の池へ真っ逆さまに堕ちていかれるではありませんか。両手を狂われたように回される御姿には、もはやシンクロ選手の余裕などございません。頭からざんぶと沈まれました。
「ふぅ……」
 カンダタが肩で息をつきました。そして、滅多なことはするものじゃない、と心から反省するのでした――。

 あの日以来、糸垂らしをやめてしまったカンダタは散歩に飽きると池を覗いて過ごしました。さすが極楽、食べ物は雲を千切りさえすれば綿菓子のように空腹を満たしてくれます。そうして食っちゃ寝を繰り返すうち、カンダタはすっかり太ってしまいました。池に顔を映すと、まるで悪夢で見た観音様のようでギョッとするのです。それでもすることがないカンダタは、水面を透かして溜息混じりに地獄を覗くのでした。
 今では地獄は御仏によってスポーツ施設の様相を呈していました。血の池はシンクロ、針の山はアスレチック、三途の川は競泳用というように、そこで罪人らの指揮をされているのです。その快活な御人柄とリーダーシップは獄卒まで魅了するらしく、地獄の住人は皆、お釈迦様中心に楽しく過ごしているようでした。
一方、カンダタは溜息の日々でした。地獄が羨ましいばかりか、御仏を追い落としたことが今更ながら悔やまれてならないのです。カンダタは生きた屍の目で池の底を見下ろすばかりでした。
「お釈迦さんよ……」
 遂に耐えかねたのでしょう、カンダタはおもむろに立ち上がると前屈みになり、指先を水面に浸けました。
「あんたの勝ちだ」
 そう呟いた時です。背後から軽快なピアノが響いてきました。着メロのようです。もはやスマホで遊ぶ気もないカンダタはフンと鼻であしらうと、思い切り雲の地を蹴りました。
 極楽は真綿の散華にきらめきました。

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