小説

『宇良の亀』木江恭(『浦島太郎』)

 宇良は足音を殺して慎重に進む。壁に飾られた鳩時計とシンプルな文字盤の壁掛け時計――どちらもそれぞれに狂った時刻を示している――の前を通り過ぎ、笑顔を浮かべたマッチョな外国人男性がプリントされたサンドバッグをぐるりと一周する。ためらいながらそっと指で押してみるが、ぎっしりと中身の詰まった感触は嘘ではなさそうだった。傍にはバーカウンターのような横長の洒落た台があり、怪獣や戦隊ものや美少女のフィギュアが所狭しと積み上げられている。さすがにこんなところに居る筈はないと思いつつも宇良は息を詰め、しゃがんだり伸び上がったりしながらフィギュアの隙間を覗き込む。やはり手がかりは見当たらない。
 次に宇良が目をつけたのは、先程まで座っていた椅子の真後ろの壁際に置かれた業務用の冷蔵庫だ。それからすぐ隣のピンクの食器棚、特に怪しいのは何故かその横にあるフランス映画にでも出てきそうな猫脚のバスタブで――。
「どうも」
 突然、野太い声が宇良の思考を破った。
 いつの間にか部屋の入口に黒服の女が――並外れて巨体の女が立っていた。宇良はこんなに太った人間を今まで見たことがない。泥団子を出鱈目に積み上げたかのような締りのない胴体から、繋がったままのソーセージのような手足が突き出している。首が完全に肉に埋もれているせいで肩から突然頭が生えているように見えた。
「初めまして、乙海姫子です」
 姫子と名乗った女は艶然と微笑んだ。時代劇の姫か何かのようにごてごてと結われた時代錯誤な頭で、重そうな髪飾りがじゃらじゃらと揺れる。婀娜っぽい仕草とだらしのない肉体の組み合わせがひどく滑稽で、おまけに声は中年の男のように低くドスが効いている。
 姫子は意外に軽やかな身のこなしでしずしずと進み、宇良が座っていたパイプ椅子の向かい、映画のセットにでも使われそうな真紅の豪奢なソファに腰を下ろした。途端にソファは今にも息絶えそうな悲鳴を上げ、広々としていた二人掛けの座面はみっちりと占領された。
 呆然と立ち尽くしている宇良を見て、姫子は小首を傾げた。
「座ったらどう?」
 口調こそ柔らかいが、反抗を許さない断固とした響きがあった。宇良は吸い寄せられるようにパイプ椅子に座った。
 近くで見てみると気の強そうな顔立ちは若々しく美人といってよさそうだが、とにかく化粧が濃い。唇はてらてらと真っ赤に光り、瞼のあたりは墨汁でも垂らしたかのように真っ黒く染められていて不気味だった。
「ひ、姫子さん」

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