小説

『宇良の亀』木江恭(『浦島太郎』)

「すみませんが、急いでいるので」
「ああ、知ってる、もちろん知ってる、そ、その」
 老人の声は、半分どもりながら早口に話すのでひどく聞き取りづらい。生乾きのシャツのようなむっとした匂いが鼻を突く。
「あの、本当に急いでいるので」
「か、亀」
 宇良は驚いて息を詰まらせ、老人を見つめた。
 老人は黄色い歯を剥き出しにして破顔する。
「あ、あんた、亀を探しているんだろ」
 何処かの信号が青に変わり、陽気なメロディが流れ出した。

 あっちでもないこっちでもない、ああこっちは開けちゃ駄目だったんだ、そうだこれだよこれ。
 ぶつぶつ呟きながら忙しなく動き回った挙句、老人は茶色い液体の入ったコップを宇良に渡してきた。
「これ、これ、麦茶」
「はあ、どうも」
「姫、姫子さあん」
 老人が大声を上げて部屋を出て行くのを見送ってから、宇良は渡されたコップを観察した。元は何かのキャラクターが描かれていたようだが絵柄は八割がた剥げ落ちていて、数え切れないほどの細かい傷のせいで透明なプラスチックが白く曇って見える。
 いや、こんなことをしている場合ではない――今のうちだ。
 宇良はコップを目の前のローテーブルに置くと、ぎしぎしと鳴るパイプ椅子からそっと立ち上がった。
 老人に連れてこられたこの部屋はとにかく奇妙だった。場所こそ有り触れた雑居ビルの一室なのだが、内装が何ともちぐはぐなのだ。古い教室のような木目の床にリゾートホテルのごとき真白い壁、天井には南国のような木製の巨大なファンと鈍い金色に輝くシャンデリアが隣り合っている。一つだけある窓は冴えない黒白ボーダー柄と蛍光グリーンのカーテンで半分ずつ覆われて、部屋は薄暗く、シャンデリアの明かりが瞬くたびに視界がゆらゆらと歪み足元がおぼつかない。

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