小説

『林檎人間』白石幸人(『我輩は猫である』)

 私たちはぺこぺこと頭を下げていましたが、その様子をみて部長は自分が圧倒的に有利な立場にあることを確信し、さらに言葉を続けました。
「だいたい、なんだね君は。真っ赤だと思ったら急に青くなって。いいかい、君はおしゃれのつもりかもしれないけど、こういうのはいけないことなんだよ」
 矛先は彼へと向いました。彼はぺこぺこと頭を下げるばかりです。
「本当に常識がないな。君は林檎だからわからないかもしれないけどね、こういうのは人間社会では通用しないんだよ、わかる?」
 部長がそういったとき、私は自分の身体の毛が逆立っていることに気付きました。
 林檎だからわからない?人間じゃないからわからない?全く道理がありません。確かに彼は他の人間とは違います。しかし、腕だってあるし、脚だってあるし、名前もあります。何よりも、みんなの気持ちを考えて、理解する、心があります。だから彼はれっきとした人間なのです。林檎人間なのです。むしろ自分が気に入らないからと、ここまで他人を傷つけることができる、人の心を理解しようとしない、そんな部長こそ人間ではないと思うのです。
 私は今すぐにでも部長の鼻っ柱を思い切り殴ってしましたい気持ちで一杯でした。ここまで虚仮にされて、なぜ黙っていることができましょうか。確かに、社会人であれば、大人であれば、人間であれば、こんなときは大人しくしているのが常識なのでしょう。しかし、こんなときに怒ること一つできないのならば、私は人間でなくともよいと思いました。
「何か言ってみたらどうだね。こういうときはまず謝るものだと思うけどね」
いよいよ私の我慢も限界に達し、身体にある全ての力を使って部長へと飛び掛ろうとした、まさにその時、彼がずいと一歩部長へと歩み寄りました。
「何だね、何か文句でもあるのかね」
 部長は冷静な顔で彼を見つめて、言いました。すると彼は、あのふにふにとした手で部長の頭をすりすりと撫で始めたのでした。
「…馬鹿にしているのかっ!」
 一瞬何が起こったのか全くわからずに呆然としていた部長ですが、すぐに我を取り戻し、彼の腕を振り払うと大声で怒鳴り始めました。
「非常識にもほどがあるっ!怒られているときに上司の頭を撫でるやつがあるかっ!」

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