小説

『林檎人間』白石幸人(『我輩は猫である』)

 身体の色以外にも変わってきたことがあります。それは彼のお昼休みの過ごし方です。彼は口がありませんので、何かを食べることができません。ですから、皆がお昼ご飯を食べている間は何もすることがないように思われますが、彼はお昼休みになると日当たりの良い場所に移動し、日光浴を始めるのです。日光を浴びている彼は、本当に気持ちよさそうにリラックスしているようでした。そして、日光浴が終わると彼は心なしかツヤツヤしているようにも見えました。しかし、最近の彼はお昼休みになっても日光浴をすることはなく、ぼうっとデスクに座っているのです。彼の様子を見かねた社員たちが彼のデスクの近くで食事を摂る様にしているようですが、彼は結局今日も日光浴をしませんでした。
 彼の変化は営業活動にも影響しました。彼の体の半分以上が青色になったころ、いつものように彼と共に営業先へ赴き、取引の打ち合わせを始めました。この取引相手は昔から私たちの会社を贔屓にしてくれている方でしたので、何の心配もなく打ち合わせをしていました。しかし、打ち合わせも終盤に差し掛かったころ、ふと、酸っぱい香りがし始めたのです。その香りを嗅いだ私は、言いようのない不安な気持ちで一杯になりました。何の失敗をしたわけでもありません。しかし、何だかそわそわと身体が落ち着かないのです。今までに嗅いできた甘い匂いとは全く違った匂いでしたので、彼をちらりと見ると彼はいつもと変わらない様子で座っていました。私は彼の調子があまり良くないのだろうと考え、はやく打ち合わせを終わらせてしまおうと思いました。しかし、突然相手が無言で席を立って応接室から出て行ってしまったのです。私は何が起こったのか理解できず、必死に相手にすがりつきましたが、それきり、打ち合わせが再開することはありませんでした。
 相手の会社から出てきた私は、取引が失敗してしまったことよりも、彼の身に何が起こっているのかが気になり、彼を見つめました。すると彼は、やはり、ぺこぺこと頭を下げるのでした。
 私たちが贔屓にしてくれている上客との取引に失敗したということは、すぐに部長の耳に入りました。私たちを貶めるのに絶好の機会と考えたのでしょう。部長は意気揚々と私たちの部署までやってきて、みんなに聞こえるように大きな声で話し始めました。
「いいかい君たち。調子にのっているからこんな失敗をしてしまうのだよ。この責任をどうやってとるつもりなんだい」
 もちろん、取引に失敗してしまったのは私たちの責任です。しかし、この叱責はやはり正しいことを広めようとするよりも、正論を振りかざし私たちをいたぶることを目的としているようでした。
「たまたま上手くいっていただけなのに、それを自分の実力と勘違いして、謙虚さや勤勉さを忘れる。だからお得意先の人の機嫌を損ねてしまうんだ。本当に君たちは社会人としての自覚が足りないな」
 この世の中には、二種類の人間がいます。自分と気が合わない、気に入らない人間に出会ったときに、関わらないようにする人間と、自分から攻撃を仕掛け相手を追い出すか自分好みの形に変えないと気が済まない人間です。おそらく部長は後者なのでしょう。

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