小説

『林檎人間』白石幸人(『我輩は猫である』)

 そんな小難しいことを、私が小さな脳みそで必死に考えていると、彼がお茶とお菓子をもってきてくれました。もしかしたら、うんうんと考え込んでいる私を見て、仕事に行き詰っていると考えたのかもしれません。私は彼にお礼を言ってお茶に口をつけました。そのお茶は適度に冷ましてありました。私は熱いものが苦手で、そのことをちゃんと彼は覚えてくれているのです。お菓子もやわらかい濡れ煎餅が添えてあって、私がチョコレートなどの甘いものが苦手なことを気遣ってくれているようです。
 私が濡れ煎餅をぱりぱりと齧りながら考えていたのは、彼にはしっかりと感情があるということでした。彼は普段は物静かで、あまり感情を露わにすることはありませんが、仕事で失敗したときはいつもの赤い顔を更に赤くしますし、逆に仕事が上手くいって私に誉められたときは、嬉しさを隠し切れず頭から生えている茎をぴょんぴょんと跳ねさせます。そして何よりも、目の前にある冷めたお茶と濡れ煎餅を見て、私はやはり彼は林檎人間であると確信したのでした。



 年末の迫る中、私たちはせっせと仕事に勤しんでしました。彼とペアでの営業はやはり神がかり的に上手くいくもので、私たちのペアがついに会社の中でトップの成績になっていました。しかし、そんなに大きくない会社ですから、私たちの活躍はすぐに部長の耳に入り、嫌味を言われることが多くなっていました。ただ、今までと違うことは、部長が私だけではなく、彼にも嫌味を言うようになったことでした。
「何だね君は。名前の一つも書けないのかね。それで他の会社の人が納得すると思うのか。営業の成績は良いようだが、そんなことでは社会人失格だぞ」
 それでも契約は成立しているわけですから、まったく道理のない説教であることは明白でしたが、自分も部長に嫌味を言われるようになることが恐く、誰も彼を庇おうとはしません。そんな彼を見かねて私が仲裁に入ると、部長はすぐに矛先を私に変えてくれるので、何とか彼への攻撃も抑えることができます。そんなとき、やはり彼はぺこぺこと頭を下げるのでした。
 そんな憂鬱な日々が続く中、私は彼のことが心配になってきました。私はもう八年も部長と一緒に仕事をしているので慣れっこですが、彼はまだ入社して間もなく、せっかく仕事も覚えて、職場にも慣れてきたのに、謂れのない叱責でこの仕事をやめてしまうかもしれないと思ったのです。
 彼はいつも通りにデスクに向って仕事をしているように見えました。ただ、いつもに増して静かでしたので、何か声をかけようと彼に近寄ったとき、私は彼の背中の部分が青くなっていることに気がつきました。それだけではなく、いつもならばぴかぴかに磨き上げられている美しい真っ赤な身体も、ところどころ磨ききれていない部分があります。私がそれとなく声をかけると、彼は手を止め、こちらを見上げてきました。やはり、顔の部分にも青くなってしまっている部分が見受けられました。少し休憩してもいいよと告げると彼は少し考えるようにクビを傾げた後、ぺこりと頭を下げ、あのふにふにな手でそっと私と握手をし、また仕事に向い始めたのでした。

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