小説

『林檎人間』白石幸人(『我輩は猫である』)

「まったく、何であんなのが契約をとれるのかね。普通、あんな人間じゃないやつとは誰も契約はしたがらないと思うのだが。だってそうだろ、あんなのを信頼できるわけないじゃないか」
 その後、私は部長から解放され、自分のデスクに戻ってきたのですが、ずっとさっきの部長の言葉について考えていました。
 人間じゃない?たしかに彼は他の人間と違う身体、つまり林檎であるけれども、他に何が人間と違うのでしょうか。
 まず、私の頭に浮かんだことは、彼には名前がないことでした。幸いにして、すでに私には名前がありましたから、彼の境遇を自分のこととして考えられる立場ではありませんが、それでも名前がないから人間ではないという道理はないように思われました。彼には名前はなくとも、あの林檎の判子があります。あの林檎の判子を見れば、この会社では彼を思い浮かべることができる。つまり、しっかりと他の社員との違いを識別できるではないですか。文字は意味を伴った記号でありますから、その意味で、彼はすでに名前を手にいれているのではないでしょうか。平面状だけではなく、音声的な呼び名だってあります。あだ名だってあります。私たちは彼のことをしっかりと他の林檎や人間とは別に認識しているのです。
 次に頭に浮かんだのは、彼の身体についてでした。私が彼を「林檎人間」と呼んだのは、彼がしっかりとした二本の腕と二本の脚をもって、人間のようなフォルムをしていたからです。しかし、胴体が林檎だから人間ではないとするのも道理がないように思われました。確かに彼の胴体は林檎で、腕や脚も私たちとは異なる形状をしています。生物学上で言えば「人間」には属さないでしょう。しかし、それらの腕や脚はしっかりと機能し、私たちと同じ生活システムの中に順応しているではないですか。もしも、形が他の人間と違うからといって人間として扱われないのであれば、障害を持って生まれてきた人たちは人間と呼べないのでしょうか。むしろ、彼等が人間と呼ばれているのは、生物学上において「人間」に分類されるからなのでしょうか。
 最後に頭に浮かんできたことは、彼は男性なのか女性なのかということでした。私は便宜上彼のことを「彼」と呼んでいますが、男性だと確信しているわけではありません。普通私たちの性別は生まれたときにはっきりとわかりますが、彼の場合はそれを見分ける部位がありません。もしかすると、林檎人間にとってはすぐに見分けることができる部位があるのかもしれませんが、少なくとも私たちには見分けることができませんでした。それに、身体的に男性であっても、心が女性な方だっています。そんな人を、男性と呼ぶべきか、女性と呼ぶべきか、私にはわかりません。その意味では、彼は仮面を被った人間みたいな存在なのかもしれません。仮面、つまり外部的な要素をなくした人間は、その中身だけでしか性別を見分けることはできなくなることでしょう。身体も、声も、匂いもわからない。そんな時私たちはどうやって相手の性別を見分けるのでしょうか。それとも、性別が二種類しかないと考えていること事態が間違っているのでしょうか。彼に性別などないのでしょうか。

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