小説

『林檎人間』白石幸人(『我輩は猫である』)



 彼が入社して一ヶ月もすると、会社の中に林檎人間がいるという光景も当たり前のものになってきました。社員たちも彼との付き合いに慣れ、他の社員と同じように扱うようになり、誰も彼を二度見したり、凝視したりする人間はいなくなりました。私とペアではありますが、営業の成績も神がかり的に伸びていましたから、私を含めた彼の周りからの評価は上がっていました。彼の同僚の中には、彼がそろそろ異例の出世を果たすのではないかと言うものもいましたが、そうはなりませんでした。
 どの社会においても、人の功績を嫉むものはいるものです。私たちの会社においては、部長が正にそういう人でした。
「最近はずいぶんと営業の成績が良いようだねぇ」
 私が入社して配属されたのが、この現部長、元課長の部下というポジションでした。彼は、人一倍自尊心というものが強いらしく、自分よりも優れている人には厳しく、常に自分が一番でなければ気が済まないという種類の人間で、私が少しでも彼の成績を上回ると、すぐにこうして呼び出してネチネチと苛めてくるのです。
「まあ、まだ私くらい安定して成績を残せているわけではないのだから、もっと努力しないと。あと、いつまでも部下と一緒に打ち合わせに行っていてはダメだよ。さっさと独り立ちさせてあげないと。それが部下のためであり、上司の仕事だよ」
この部長の質の悪いところは、「誰かのため」というもっともらしい道理を会話に混ぜることによって、自分の説教と言う行為を正当化し、なおかつ、私の行為ではなく、なんとかして私の人格を否定し、傷つけようとするところでした。このネチネチとした説教のお陰で、私は幾度となくこの会社をやめようと考えました。
「それにしても何だねあの子は。林檎?あんな人間のなりそこないみたいな物が打ち合わせに同席してよく相手方に門前払いを食らわないものだ。この会社にしてもそうだよ。何故彼みたいなのが入社できたのか私には不思議でしょうがないよ。あんなのが会社の中にいるなんで、他の社員の精神衛生的に良くないでしょう。どうせまたコネ入社だろうよ」
 吐き捨てるようにそう言った部長でしたが、その目はしっかりと私を見据えていました。会話の最後に「お前のようにな」と言う言葉が隠れていることを私に伝えるためです。
 私は大学の卒業が迫ってもどの会社からも内定がもらえませんでした。就職難のこの時代に出身大学が平凡であったということも影響しているかと思いますが、何よりも致命的に滑舌が悪かったことが最大の原因でしょう。そんな就職先に困っている私を見かねて、当時居候させてもらっていた家の方にこの会社を紹介してもらったのです。その方は高名な小説家で、この会社の社長と大の仲良しでしたから、すぐに内定を貰うことができました。しかし、そんなコネ入社を良く思わない部長は、私にことあるごとに圧力をかけてくるのでした。

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