小説

『都会の街の喧騒の下』阿賀山なつ子(『桜の森の満開の下』)

 俺はつまらないのだろうか?あの少女自身が俺なのだろうか?男ははたと思いました。男はつまらないまま死にたくないと思ってこの田舎を出たのです。つまらなさは、男にとってもっとも憎むべきものでした。
 きっとあの少女を殺すことで、この無限の明暗を止めることができます。しかし、あの少女を殺すことは、俺を殺してしまうことなのだろうか?男は思いました。俺は何を考えているんだ?
 走り続けて、桜の森が見えました。やはりつまらないものだと男は思いました。田舎の桜より、朝も夜もない東京の街並みのほうがよっぽど美しいものだと思いました。
 男は桜の下に足を踏み入れました。見上げても、見回しても辺り一面桜しか見えませんでした。
 東京へ帰ろう。桜の下を男は歩きました。辺りは徐々に薄暗く、冷たくなっていきます。それは四方を囲む桜のためでした。桜の森のまんなかくらいに来たとき、急にどっと風が起こった気がしました。ごうごうと音が聞こえます。それは男が東京の部屋に一人きりでいるときに聞こえたものと同じ音でした。それは、感じたことのない恐怖を男に与えてすべてを支配しました。
 なんという虚無だろう。男は叫びました。桜の下には果てがありません。恐ろしくてたまらなくなりました。
 夢中でした。男は息ができなくなるほど走りました。上り坂を走りやっと桜の森を抜けて、男は身体がばらばらになりそうなほど疲れ果てていました。もはや東京に帰ることなどどうでもよくなっていました。よろよろと歩いていると、少女と出会った場所に戻ってきてしまったようでした。少女はまだ桜の木の下に佇んでいました。
「どこへ行っていたの。あなたがいなくなって、退屈で死んでしまいそうだったわ」
「それなら、俺といるときは退屈じゃなかったの」
「当たり前じゃない。あなたは私に歌や話をくれたもの」
 少女が初めて見せた殊勝な態度に男は喜びました。なんだ、俺はやはり立派な仕事をしているじゃないか。身体の底から湧き上がるような感動と希望が男を満たしました。走り続けていたときに考えていた、この田舎の日々の繰り返しを止めることなどどこかへ消え去っていました。繰り返される日々より、今と明日があるだけだと男は思いました。
「困らせて悪かったわ。でも私、やっぱり桜の森が見たいの」
「ああ、連れて行ってあげるよ」
 男にはもう少女の望むことを叶えようという気持ちしかありませんでした。この田舎を、桜の森をつまらないと憎む思いはなくなっていました。桜の森の下で感じた恐怖のことさえもすっかり忘れ去っていました。
 男は、自転車の荷台に少女を乗せてさっき来た道を走り出しました。先ほどの疲れはもう吹き飛んでいました。
 桜の森の入り口は下り坂です。男は全速力でどこまでも転がり落ちるように下って行きました。
「あなたの歌と同じだわ、この桜の森。」

1 2 3 4 5 6 7 8 9