小説

『都会の街の喧騒の下』阿賀山なつ子(『桜の森の満開の下』)

「私は桜の森が見たいのよ。あなたは有名だと威張るわりには、私に桜の森を見せることもできないの」
「見せるさ、ここで」
 それから男は桜の森の歌や話を少女に見せ続けました。いつの間にか男はたったひとりの客の前で本気になっていました。汗をかき、息を吐き、ときに止めたりして、頭と身体を使ってすべてを表そうとしました。しかしそのどれも少女を納得させませんでした。
「もっと新しいものよ」
 少女の欲望にはきりがありません。男はいやになりました。少女の欲の果てのなさと、少女を前に繰り返される自分の仕事に退屈していました。男は仕事をするということを意識して行うことがありませんでしたから、延々続くこのきりきり舞いはただ男の身体を疲れさせるだけでした。
「俺はもう行くよ」
「新しいものを見せてよ」
 少女のその言葉を無視して、男は桜の木の下から歩き出しました。

 田舎の道は誰もいない道です。錆びついたバス停の看板だとか、そこかしこに無秩序に生える草や花、川や橋、鳥の鳴く声だけが田舎の世界でした。土や草の甘い匂いばかりがしました。男はうんざりしました。つまらないと思いました。男はいつからか田舎を憎んでいました。
 男は歩きました。しかし、歩けども歩けどもだだっ広い田舎は男についてきました。男は走りだしました。走るうちに夜がきました。朝になりました。また夜がきます。東京とは違い、はっきりした朝と夜でした。男はいつまでも田舎から抜け出せません。なにも変わらずに、ただ無限の明暗のみがありました。
 こんなものはきりがない。男は思いました。この果てのない明暗の繰り返しからどうにかして逃げ出そうと思いました。その果てのなさは、あの少女の欲望と同じだと男は思いました。
 少女の欲望を止めることがつまりこのつまらない田舎の日々の繰り返しを止めることでした。しかし男は少女の望む新しいものを叶えることができなかったのです。
 男は自分の仕事を褒められるときにいつも感じていた不安を強く思い出しました。誰になにを言われても、言葉のままに受け入れられなかったということを思い出しました。男はどんなに称賛を得てもそれを信じることができませんでした。そんなものはいらないと思う反面、もっと欲しいと思う気持ちもありました。
 いつまでも満たされない心の隙間こそがあの東京の部屋でありました。そしてそれを埋めるために男は仕事を続けてきたはずでした。

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