小説

『走れ土左衛門』山口香織(『走れメロス』)

 文化祭まで一週間を切った頃、林が怒りだした。森田に対してだ。
「ごめんごめん、ちょっと緊張して間違っちゃった」
「ごめんじゃねーよ。お前一人のせいでみんなが迷惑してんだぞ」
 林の言葉にかぶせて、他の者も森田に苛立ちの声を浴びせた。時間がないことでみんなぴりぴりしているのだ。殊に主役を任されている林は神経が尖っていて、些細なことにもうるさい。
「お前、家で練習してんのかよ? セリフ多くねえだろ。緑川なんか長ゼリフ多いのに全部覚えてんぞ」
 それまでぼんやり泳いでいた緑川の視線が、はっと色を持って林に向けられた。林は相変わらず森田を睨みつけている。
「やめろよ」沖田が割って入った。「今、森田責めてもどうにもならないじゃん。とりあえず明日までに完璧になってなかったら降板も考える。それでいいだろ?」
 林は銅像のように冷たく、森田を睨んだまま動かなかった。だが、しばし置いて、ふっと視線を外し、明日までな、と誰に言うでもなく呟いた。
 翌日、森田は朝から神妙な面持ちだった。いつも通りへらへら笑っても、その表情はすぐに真顔に呑み込まれた。彼なりに真剣ではあるのだなと、沖田は内心ほっとした。きっとうまくやってくれる。
 放課後になり、練習が始まった。それまで繰り返してきたシナリオを、役者たちがこなしていく。そして、とうとう森田こと喜助の長ゼリフのところへ来た。昨日のことがあったため、みんな自分の作業を止めて見つめている。
「蔵之介、私を殴れ。同じくらい音高く、私の頬を殴れ―――」
 彼はつっかかりもせず、おどけて半笑いになることもなく、完璧にすべてのセリフを言い切った。あとに続く静寂。そこへ、かたん、と何かが倒れる音がして、再び教室の気配が動き始めた。ぱちぱちと誰かが手を叩き、つられた他のクラスメイトも加わって、室内が拍手で満たされた。やっといつもの柔らかい表情を取り戻した森田は、面映ゆげに顔を伏せた。

「森田」
 練習が終わると、沖田は声をかけた。
「うまくやったな。相当頑張ったんだろ?」
 森田は下唇を噛みながら口角を上げて見せた。
「緑川のおかげだよ」
 驚く沖田を見て、森田は笑った。

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