小説

『走れ土左衛門』山口香織(『走れメロス』)

 一瞬の間をおいて、おおーという歓声がこわばった空気を壊した。続けて、威勢の良さを取り戻した級友たちが、あちこちで高らかに手を挙げた。仕方なく沖田が林を指名する。
「時代劇なら名前変えなきゃ。オレ、メロスは蔵之介がいいな。ありそうだし、佐々木蔵之介みたいでカッコ良くね?」
 く、くらのすけ……? 沖田の思いをよそに、なぜか賛同の声が教室のここかしこから上がってくる。さらには、別の奴が高らかに手を挙げて、
「セリヌンティウスは喜助がいいな。『高瀬舟』って教科書のやつに出てくるじゃん。なんか、とりあえずついてない奴って感じで、セリヌンティウスっぽくない?」
 いや、全然ちげえだろ。しかし、相変わらず沖田の感覚などお構いなしにみんな大いに納得している。もう、教室の雰囲気そのものが、何でもかんでも肯定するやたらと愉快なムードになってしまっている。クラス一丸となって乗りに乗っている感じだ。
 しかし、最も恐ろしい発言は、その後にやって来た。早見が大きく手を挙げて言ったのだ。
「妹の名前は、ジュリエットがいいな」
 それまで、騒然としていた教室が静まった。誰かが椅子を引き、床をこする鈍い音がいやに耳につく。明らかに歓迎されていないことが分かってか、すぐに早見は言葉を繋ぐ。
「私、思うんだ。妹じゃなくて恋人にして、人種の違いによって許されないはずだった恋が実ったって感じにしたらって」
「ちょっと待って」失っていた声をどうにか絞り出し、沖田が言う。「てことは、メロスは――」
「蔵之介だ」
 すぐさま林が話の腰を折る。
「あ、そう。蔵之介だ。とにかく主人公は、やっと恋人と結ばれることになったのに、式挙げたら新妻ほったらかして死にに行くのか?」
「そうだよ、ロマンチックじゃん!」
 どこがだ……? しかし、沖田と早見が言葉を交わした数十秒のうちに、教室の空気には高揚感がすっかり戻ってしまっていた。最初の驚きはクラスの雰囲気に溶け込んで消えている。小雨が急速に強まって水面を叩くリズムが一気に上がるみたいに、教室に言葉が溢れていく。その中で、一人の女子が手を挙げて、
「めっちゃいいと思う! 最後の最後って分かってても愛を貫いたって感じだね」
 拍手が起こった。もう沖田にはどうすることもできない。ハンドルが動かずブレーキもきかない自転車で、急な坂道を下っているような気分だ。クラスの奴らは王様は時代劇っぽく「お館様」にしようなどと宣っていたが、突っ込む気にもならなかった。

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