小説

『走れ土左衛門』山口香織(『走れメロス』)

 それでも沖田はこの小説が好きだった。それはメロスが必死で証明しようとした「人の信実」に大きな意味を感じるからだ。沖田はこれまでの十五年の人生で、様々な人々と出会ってきた。家族や親戚、クラスメイトや上級生下級生、それに教員たち。その中で、緑川に対するいじめのように、他人を馬鹿にしたり差別したりして楽しむ人間も目にしている。それを考えると、ディオニス王の言う通り、人の心は当てにならないのかもしれない。でも、そういう人の嫌なところは、ただ虚勢を張っているだけで、心の底ではみんなそれなりの優しさを持っている。事実はどうあれ、そう信じることが大切だとメロスは彼に教えてくれた。他人の心なんて分かるはずがない。それならば、人々をどう受け取るかで全てが決まる。信じようと思えば、それが自分にとっての事実になる。人を疑って孤独に陥る王に、ものすごい勢いで体を張ってそれを伝えたメロスに、六年かけて沖田は感銘を覚えていったのだ。

 再びロングホームルームの時間。沖田は教卓の前に立ち、クラスメイトたちに向けて話していた。みんなの手元には、沖田が一週間睡眠時間を削って仕上げた脚本がある。印刷係が刷ってきてくれたばかりのものだ。
「これでいこうと思うんだけど、ここはこうした方がいいとか、なんか意見ある?」
 完璧だと思いつつも、とりあえず形だけでも他人の意見を聞いておかないと。そう考えて言ったのが間違いだった。間髪入れず、声が返ってきた。
「これさあ、すげえ普通のメロスじゃん。つまんなくね? やるんだったら、もっと大胆に変えた方がウケんじゃないの?」
 それを皮切りに、一斉にみんな様々な声を飛ばしてきた。
「現代風にアレンジするとか!」
「いや、それはありきたりだろ」
「男と女、入れ替えんのは?」
「何の意味があんだよ」
「逆に時代劇風にするとか」
「何の逆?」
 沖田は思いがけない展開に面食らってしまっていた。言葉の羅列が耳から入り、脳をすっ飛ばして反対側へ流れていく。ただただ、やかましい。何も考えられない。これでは全く話がまとまらない。苛立ちも手伝って、気づいた時には声を荒げていた。
「話すんなら手ぇ挙げろよ。これじゃ全然分かんねえよ!」
 しん、と教室がはりつめた。静けさで余計に沖田の怒声が際立つ。急にいたたまれない気持ちになって、彼はうつむいた。すると、すっと小さく手が挙がった。緑川だ。彼は挙手の仕方と同様に控えめな声で、
「オレ、時代劇って、いいと思う。」

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11