小説

『走れ土左衛門』山口香織(『走れメロス』)

「私はそれ、いいと思う……」
 教室の雰囲気が僅かに揺らいだ。みんながどう反応しようか迷い、周囲を伺い合う。だが数秒のうちに彼らの表情はほどけ、とげとげした空気がまるくなっていく。学校社会は単純なもので、誰かが初めに声をあげればみんな安心してそれに乗って来れるのだ。おかげで、実行委員の独断による意見が歓迎されることとなった。

 話し合いは、水曜日の最終授業――ロングホームルームを使って行われている。一週間後の水曜日に作業分担を決めた。
 監督と脚本は、みんな沖田で異存なし。配役も思いの外すぐに決まった。
 メロス役は林という男子だ。彼はかなり切れやすく、給食当番の汁物のよそり方が汚いと言って声を荒げたりする。その怒りっぽさが切れやすいメロスにぴったりだとして選ばれたのは間違いないのだが、そんなこと言ってはまたわめき始めるだろう。暗黙のうちに、みんなで「似合う」と言ってごまかすことになっていた。主役に抜擢されたので、本人もご満悦だった。
 ディオニス王は緑川。誰かとペアを組んだりグループを作ったりする際、最後まで相手を見つけようともせずに一人でどんよりとしている根暗だ。一、二年の頃はその陰気な性格が災いして酷くいじめられていた。三年の今は、当時のクラスメイトが沖田と川瀬くらいしかいないため、嫌がらせを受けからかわれることはないのだが、やはり暗い奴はみんななんとなく遠巻きにする。そんな中で彼を推薦したのは川瀬で、一年の時から見ていて同情したためだろう。本人はにこりともせずに、ただぶっきらぼうに、うん、と言っただけだった。
 その他、セリヌンティウスはお調子者で痛い目ばかりに合う森田に、妹役は『ロミオとジュリエット』を推していた目立ちたがり女子の早見に、ナレーションは川瀬に決まった。

 正式に脚本を任された日の夜、沖田は自室の勉強机に向かい、久しく手に取っていなかった太宰治の『走れメロス』を開いていた。その横には買ってきたばかりのまっさらなノート。手ではシャーペンを器用に回しているが、目は文庫本のページを一心に走っている。まずは思いついたことを書き出していこうと、読み直しているところだった。
 『走れメロス』は突っ込みどころが多い。王の暴君ぶりを聞いたからと言って、買い物に来ただけの町で「王を殺そう!」と思いついて王城に乗り込むというのは、あまりにも単細胞すぎる。それに、セリヌンティウスへの仕打ちは酷い。全く関係ない彼を人質として差し出し、「自分が戻って来なかったら、彼を殺せ」とはどういうことか。「竹馬の友」だからって、やっていいことと悪いことがある。

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