小説

『笠地蔵と飯盛女』宮城忠司(『笠地蔵』)

「平蔵と言う名じゃ。国は越中高岡で、薬問屋に奉公に上がったのは覚えておる。それからのことはサッパリじゃ。ワシゃー、どこで何をしとったんじゃろう?」
 お婆さんが囲炉裏に火をくべながら言った。
「この人、こぶを作ってもらった代わりに、記憶をお地蔵さんに吸い取られたずら。地蔵さんの贈りもんだに。おらっち(私の家)で一緒に暮らすかや?」
 おせんは、やせ細った男が平蔵だと直ぐに分かった。人としての扱いを許されぬ生き地獄からの逃避を、暗に諭してくれた恩人である。お婆さんの申し出に異存はなかった。
「どんなことでもしますさかい、ここに置いてくたはれ」
 平蔵は頭を下げ続けた
 おせんは平蔵が記憶喪失になっているのを知ってホッとしていた。思い出したくもない飯盛女の過去を誰にも知られたくなかったからである。仮に平蔵の記憶が戻った場合には、どちらかがお爺さんお婆さんと別れなければ筋が通らないことでもあった。
 平蔵はおせんを、お爺さんお婆さんの娘だと信じて疑わなかった。嫌なことでもおせんの指示に従ったのは、居候の身分だとわきまえているからだった。
 お爺さんお婆さんは、一家が仲睦まじく、ひもじい思いをせずに暮らしていければ、それで満足だった。唯一の贅沢は正月に餅を食べることだった。おせんも同じ思いであった。
 お守り袋のことを思い出すのではないかと少し不安がよぎったが、おせんは平蔵にアカネ栽培について聞いてみた。
「アカネという植物を知っとるかや?オラが段々畑で育てとるずら。根を乾かしてお爺さんが町へ売りに行っただら。良い値で売れて、この冬は温かく過ごせそうずら。この先春になってからの、アカネの手入れが分からんだに!」
 ビックリしたのは平蔵である。記憶を喪失していたが、これまでの、身体で覚えた経験と知識だけは確りしていた。
「昔から育っとるがか?難しい薬草でのう、べと(土)を選ぶんや。おせんさん?手入れをし過ぎると嫌がって、自分から枯れてしまう、箸にも棒にもかからん植物やから、放っておくに限ると聞いとる。間引きして竿を立てるだけで充分じゃろう。
 茜草(せんそう)も高く売れるやろうけど、灰汁で煮出した染料は、茜色と言ってなぁー、一級品じゃ。灰の量で色が決まるんじゃ。朝焼けのように美しく輝いてのう。アカネのこと、ワシに手伝わせてもらえんじゃろうか?」
 平蔵は真剣な顔つきで懇願した。おせんは内心『しめた!』と思い喜んだ。この先どうしたものかと途方に暮れていたからである。しかし、感情を抑えて静かに言った。

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