小説

『レモン』こさかゆうき(『檸檬』)

 玉置はそのほかにも何か言ったようだったが、私はそれよりも彼の箸が動く瞬間を逃すまいと、気づかれないように顔を少し斜めに向けることに集中した。
 彼の箸は一瞬、唐揚げに行くかのように見せかけて、結局その上を通りすぎて横のドレッシングでてかてか光るレタスをつまみ上げた。
 やっぱり!
 彼が「フェイント」を見せたのは、これで三度目だった。彼は何らかの理由によって唐揚げを避けているのだと、私は確信していた。そして、その何らかの理由が「レモン」であることも、私は確信していた。
 玉置は、レモンが嫌いなのだ!
 しかし可哀想に、だらしない口調の後輩くん(声のトーンから、後輩であると私はほぼ確信している)が、唐揚げが運ばれて来た途端に、「レモン絞りま~す」と妙な機転をきかせてしまったのだ(姿は見えなかったが、このかけ声で彼がレモンを絞ったことがわかった)。
 奴は、これさえやっておけば、とりあえず下っ端の居酒屋でのマナーの及第点をもらえるとでも思っているに違いない。
 私は玉置に対してほんの少し同情の気持ちを抱いた。しかし同時に、唐揚げにレモンを絞っていいかと聞かれて、「ダメ!」と答えるケースを見たことがないから、これは悲しい事故だとも思った。
「だからよ、客が言ってることをそのまんま会社に持ち帰ってくるだけだったら、俺たちスタッフが直接聞きに行っても同じことだろ?って、俺は言ってんの」
 赤メガネが酔っ払った真っ赤な顔で力説していた。不自然じゃない程度に彼の顔を見ると、誰かに似ていると思った。
あ、笑福亭笑瓶だ。落語家の。しかし、すぐに、メガネのインパクトだけかもしれない、と私は思い直した。
 赤メガネ改め、笑瓶が、唐揚げの小さいのを大皿から直接つまみ、口に放り込んだ。中年のおじさんは、小皿に盛りつけるようなことはしないのだ。
「それは確かに、仰るとおりで…」
 情けないことに、玉置は笑瓶の文句に対してただただ謝るばかりである。私は情けなさと悔しさのあまり、グラスのビールを一気に飲み干した。笑瓶がチラリとこちらを見た。
 グラスをテーブルに音を立てて置いたとき、ふと自分が勘違いをしているのではないか、という疑念にとらわれた。私は勝手に笑瓶を横柄なおっさんだと決めつけていたが、実は玉置がまったく出来の悪い営業で、とんでもないミスを犯したことだってあり得る。今夜は、多大な迷惑をかけたスタッフ(やたら偉そうなスタッフとは、何をする人たちだろう?)の二人を接待する日なのではないか。これまでの会話や状況を整理すると、この考えのほうがよほどしっくりきた。

1 2 3 4