小説

『ヒメゴト』砂部岩延(『鶴の恩返し』)

「求愛のダンスですよ。人間相手なんて初めて見ましたよ。これは期待が持てそうだ」
 と、実に楽しそうに笑う。
 来世はタンチョウに生まれ変わった方が幸せになれそうだ。
 翌朝、予定通りにホテルをチェックアウトした。
 思わぬ出来事もあったが、結果として良い旅になった。小さな命を救えた達成感が心をほんのりと温めていた。
 帰り道、立ち寄った道の駅で財布が無い事に気付くまでの短い幸福だった。

 
 しとしとと長雨が降り続いている。
 六月を前に早くも東京は梅雨入りしていた。じっとりと肌にまとわりつく湿った空気が疲れた身に辛い。
 新しい現場は入ったばかりの契約社員を早くも殺しにかかっている。今日も今日とて終電帰りを余儀なくされた。
 傘を差して、家までの道のりを歩く。
 ロータリー前のファミレスは早くも店じまいを始めている。駅から一本路地を入ればカラオケもネットカフェもない、閑静な住宅街が続く。
 途中のコンビニで菓子パンばかり五個も買ってしまった。仕事上がりは無性に甘いものが食べたくなる。
 歩いて五分ほどでアパートに着く。
 木造二階建てのボロアパートは家賃の安さくらいしか取り柄がない。隣のテレビの音は余さず聞こえるし、二階の廊下を誰かが歩くとぐらぐらと揺れる。大きな地震が来た日には、積み木のようにパタリと倒れるに違いない。
 階段下のポストに突っ込まれたダイレクトメールと郵便物の束を引き出して、中身を確認しながら二階に上がる。
 階段上の電灯が点滅していた。
 先週、廊下奥の電灯を換えてもらったばかりだというのに。あちらを替えればこちらが切れる。いい加減、大家に連絡するのも面倒だ。さっさとLEDに替えればいいものを。
「あの」
 隣り近所十件先まで響きそうな、男の野太い悲鳴が木霊する。廊下の扉から誰も様子を伺いに来なかったのが不思議でならない。頭上にばかり気を取られて、廊下の暗がりに佇む人影に気付かなかった。
 廊下には女性が立っていた。
 より正しくは、女性らしき誰かだ。

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