小説

『ヒメゴト』砂部岩延(『鶴の恩返し』)

 道沿いに並び立つ背の高い木の向こうに、見渡す限り新緑の地平が広がっている。
 札幌で借りた格安レンタカーは見た目通りのボロさで、カーステレオもエアコンも壊れて動かなかった。ならばいっそと全ての窓を開け放って、風を切って走ることにした。暦の上ではもう春に違いない。北の大地に吹く風はまだ少し冷たかったが、どうせ文句を言う同乗者もいない気ままな一人旅だ。コートを着込んでマフラーでもしっかり巻いておけばどうということもない。時折、歯の根が咬み合わなくなるが、小刻みに膝でも揺らしていればそのうち温まる。道のりはいたって順調だ。
 旅に出よう。
 そう思い立ったのはつい先日のことだ。理由は至って単純で、テレビで見たタンチョウの真っ白な羽、黒い瞳、鮮やかな紅色の横顔に魅入られて、その日の晩には北海道行きの格安航空券を予約していた。
 ちょうど仕事が一段落して、前の現場との契約が切れたのもある。どうせ使い潰されるだけのしがない契約社員だ。現場の合間にゆっくり羽を伸ばすのもいいだろう。タンチョウだけに。
 新千歳空港に降り立ったのが一昨日、バスで札幌まで移動して、駅近のレンタカー屋で余っていたボロのハッチバックを借りた。「タンチョウはどこに行ったら会えるか」と尋ねたところ、東に向かえというありがたい言葉を頂戴したので、あとはひたすら東へと突き進んでいる。「またこの手の客か」と言葉無くして語った彼の生暖かい笑顔が気になったと言えば気になった。
 彼の語るところによれば、タンチョウは主に道東の湿地帯に住むそうだ。ツルと言えば渡り鳥のイメージだが、ここのは渡らない留鳥だいう。とはいえ全く渡らないわけでもないそうで、朝鮮半島や大陸まで行き来するのも中にはいるらしい。タンチョウもまた己の理想を追い求めて旅をするのだろう。急に親近感が湧いてきた。
 また、タンチョウは夫婦の絆が強いことでも有名らしい。つがいになると一方が死ぬまで同じ相手と添い遂げるという。晩飯のオカズ感覚で隠れてつまみ食いした挙句、さっさと男を乗り換えていくような人間の女とは雲泥の差だ。小さな出会いに歲月を重ねて生涯の愛とする、タンチョウのごとき情け深い女性が人間界にもいないものだろうか。いないものだろうか。
 三泊目にして釧路に行き着いた。
 ホテルと呼ぶにはややこじんまりした宿だが、清掃が行き届いていて、サービスも良い、食事も旨い、オマケに温泉までついている。これで一泊、樋口一葉にお釣りが帰るとは安すぎる、何か曰くでもあるのだろうかと怪しんでいたが、翌朝、大黒顔の主人にタンチョウの事を訪ねたらワケはすぐに分かった。
「この時期だと一番確実なのは観察施設ですね。暖かくなって餌も増えてきたので、みんな湿地の奥に引っ込んじゃって、このへんまで出てこないんですよ」

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13