小説

『hallacination』霧夜真魚(『赤い靴』アンデルセン)

妻は踊りながら夫に悪態をついた。が、夫は妻に背を向け、家を出て行った。
〈だめ!行かないで!私を置いて行かないで!〉
妻は必死に踊りながら夫のあとを追った。しかし、ハイヒールでは思うように走ることができない。
〈待って!お願い!〉
しかし、妻の願いは届かず、夫は暗闇に消えてしまった。楽しそうに踊る妻の目から涙がこぼれる。それでも踊らなければならない。町を越え、山を越え、海を越え、雨の中も雪の中も、疲れても休むことも、食べることもできず、どこまでも、どこまでも踊り続けなければならなかった。森の中で木の枝や切り株に手足を引っかかれ血を流しながら踊り続けていると、木こりに出会った。木こりは妻の赤い靴を見て感嘆して言った。
「きれいな赤い靴だなあ!こいつはダンス靴だ!欲しいなあ」
「あげるわ。この靴を脱がしてくれたら」
「そいつはいい」
木こりは妻の赤い靴を脱がそうとした。しかし、いくら引っ張っても赤い靴は妻の足から脱がすことはできない。妻は木こりの斧を見て、
「お願い!足を、赤い靴ごと切って!」
木こりは斧を振りかぶると、妻の両足目がけて振り下ろした。
ザッと鈍い音がして、両足が切り落とされた。全身に電気が走ったような痛み。斬り落とされた両足は赤い靴と一緒に踊り続けている。
「これはいるかい?」
木こりが赤い靴を指さした。
「要りません!どこかへ棄ててください!」
木こりは踊り続ける赤い靴を摑まえると、袋に詰めようとしたが、暴れたため、面倒くさくなり、思いっきり放り投げた。木こりは妻に松葉杖を作ってくれた。妻は木こりに礼を言って別れると、当てもなく森の中を歩き出した。
身体も心も憔悴しきっていたが、この森から早く出たかった。ふと、波打つ音が聞こえ、そちらへ行くと、小さな美しい碧色の湖が見えた。崖から湖を見下ろすと、ぎょっとした。赤い靴が波間に揺れている。岩場に挟まれて流れなかったのだ。体から切り離してもまだ、赤い靴は妻から離れないのか……妻は絶望した。赤い靴は波間に揺れているのではない、踊っているのだ。そして踊りながら妻を誘っている。
〈こっちにおいでよ。そっちは辛いでしょ?〉

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