小説

『hallacination』霧夜真魚(『赤い靴』アンデルセン)

妻は細い足を赤い靴に入れる。その瞬間、魂が靴に吸いとられたような感覚に襲われた。が、鏡に映る自分を見て、うっとりする。なんて素敵なの?私以上に、この赤い靴が似合う女はいないわ。これに合うドレスも買わなきゃ。顔を上げると、前の店に赤いドレスがかかっているのが目に入った。

母親の葬式で、妻は母親の遺影も、棺におさまった母親の顔も見なかった。ただ、赤いドレスと赤い靴を履いた自分に見惚れていた。参列者が妻を見て、ひそひそ話している。
〈フフ、皆が見ている。皆が私のことを素敵だって話している。〉
今まで味わったことのない恍惚感に、このまま踊りたい気分になった。
「踊りましょう」
妻は祭壇で別れの言葉を述べている牧師を背にして立ち上がると、夫の手を取った。夫は「だめだよ」と妻を座らせようとする。
〈ふん。つまらない男。だめだ、むりだ、やめろしか言わない。〉
「妊娠しているのにハイヒール履いて踊ったら危ないじゃないか」
「大丈夫よ!ほら見ていてね!」
妻は、母親の棺の周りを飛んだり跳ねたりして踊った。教会に鳴り響くパイプオルガンの荘厳な音楽。ステンドグラスに反射した光が色とりどりのスポットライトのように妻の顔を照らしている。
〈楽しい!なんて楽しいの!こんな自由な気分になったのは初めて!赤い靴のおかげね〉
手足を思いっきりのばし、顔を天に向けて踊る。突然、すべてが可笑しくなり、笑いが止まらなくなった。太腿をつたわる血に妻は気づかなかった。

――現実に返ると、妻は打ちひしがれた。
「ああ、なんてこと!私は赤ちゃんを殺してしまった!」
おぞましい事実を思い出し、項垂れる。あれからずっと妻は赤い靴を履いたまま踊り続けていたのだ。いや、踊らされていたと言った方が良い。気づいた時には、赤い靴は妻の一部になっていて、脱ぐことさえ出来なくなっていた。

「別れよう。僕といない方がいい。きみを愛しているから別れる」
「勝手にすれば。あんたなんて要らない!あんたのことなんて愛してない!」

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