小説

『hallacination』霧夜真魚(『赤い靴』アンデルセン)

走る車の中で、助手席の妻は車窓を眺めながらフッと笑った。
「どうした?」
「私たちにふさわしいなと思って」
「何が?」
「この天気。どんよりして……」
夫は運転しながら空を見上げた。妻の言うとおり、空は灰色で、遠くに雨雲さえ見える。
「そんな言い方することないだろ」
「だって、聞くから……」
二人は互いを見ず、相手に知られないように溜息をついた。結婚して八年。それが長いのか短いのか分からないが、距離が出来るには十分らしい。
あくまでも『距離』であって『溝』ではない。だからこそ、夫は思い切って休暇を取り『距離を縮める』旅行に出た。何か変わることを願って。しかし、妻は、二人の『距離』が旅行などでは縮まるものではないと諦めている。せめて子供さえいれば、と考えてしまう。結婚が遅かったため、妻は焦っていた。すぐに専門医に診てもらおうと何度も訴えたが、夫は仕事が忙しく、月に一度しかないチャンスに体を明けることができず、そうこうしているうちに、あっという間に八年が過ぎてしまった。
 ある朝、夫はコーヒーのにおいで目覚めた。ダイニングへ行くと、妻が大好きなコーヒーを飲んでいる。夫は驚いた。カフェインは妊娠できにくい体にすると聞いてから、ずっとやめていたのだ。妻は夫にもコーヒーをやめるように強いていた。気休めだと思いつつも、妻の前では飲まないようにしていた。そんな妻がコーヒーを飲んでいる。夫が起きてきたのを見て、妻は夫のカップを食器棚から出すと、淹れ立てのコーヒーを注ぎながら切り出した。
「もうやめようと思うの」
このまま不妊治療を続けても傷つくだけだと、その顔は言っていた。夫は頷いた。子供には恵まれなかったが、仕事は順調だし、妻も趣味に没頭する時間とお金がある。庭付きの一軒家に住み、ローンは完済している。
「得られないものに執着するより、今あるものに感謝しましょう」
妻は夫にというより、自分に言い聞かせるように言った。
「二人だけの生活もきっと楽しいよ」
夫は寂しそうな妻にそう言って微笑むと、今回の旅行に誘ったのだ。

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