小説

『忘れえぬ訪問者』登石ゆのみ(『忘れえぬ人々』)

「へえ、あの主人、こんな本も読むのか」
 本棚には推理小説やら歴史小説やらが並び、よく見ると純文学も多い。ジャンル不明の小説も多くある。足元に近い下の段にはホコリをかぶった紙包みがあり、めくってみると冊子類が積まれていた。
 その冊子は、手作りのようだった。一つ一つ手作りで作成されている。
「これは、同人誌か……?」
 表紙には『忘れ得ぬ人々』と書かれている。それが気になって、開いてみたが、廊下は薄暗く、よく見えなかった。中津は仕方がないので、また、廊下にずっと出ていては冷えるので、囲炉裏のある部屋まで戻った。
「おや、懐かしいものを見つけられてしまったね」
 主人の春丘は、囲炉裏の灰をつついて遊んでいたが、中津の持ち帰ってきた同人誌を見て、やや真剣な表情になった。
「読まれるとまずかったか?」
「……うーん、まあ……、まずいというか、私が若い頃書いたものだからね。少々気恥ずかしいだけだよ」
「春丘くんが書いたのか!読むだけでなく、書くのもしていたのか。これも何かの縁だ。良かったら、読んでもいいか」
「それはちょっと……、いや、昔のことだ。かまわないだろう。ここは私が読みあげてやろう。どうせ夜は長い。酒の余興に、こういうのも悪くない」
 時計を見上げると、夜の十一時だった。外は相変わらず嵐が続いていた。雨と風が、遠慮なく古宿の壁をたたきつける。その嵐の中において、この壮年二人は、世に出ていない、無名の本を紐解き始めた。すきま風が入ってきたのか、囲炉裏の火が 一瞬、強くなった。
 冊子を受け取った作者は、咳払いもせずに、すーっとその本を読み始めた。まるで今夜、読むのが決まっていたかのようである。
『私には忘れ得ぬ人々がいる。それは、私の人生に深く関わった人々という意味ではなく、ただ単に、忘れ得ない人々なのである』
 囲炉裏向かいに座った聞き手が、腕を伸ばし話し手の酒杯をそっと引き寄せる。鉄燗から酒杯へ、とろりとした液体が注がれる。
『とはいっても、直接の面会はない。ただ、画面越しに見ただけである』
「ん?画面というのはテレビのことか?」
「ああ、そうだよ。当時の私は、体が弱く家の中にばかりいたのでテレビを食い入るように見てたから、まるで現地に行ったようになっていたんだ」

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