小説

『猫と、僕と杏子の距離』こさかゆうき(『猫と庄造と二人のをんな』)

 リリーは軽い身のこなしで、ひょいっと杏子が座っているソファに飛び乗った。
「ねえねえ、杏子ちゃん。僕なんかリリーに嫌われるようなことした?」
「うわ、ちょっと!いまめっちゃ長い記事読んでるとこやのに、邪魔せんといてーや」
 おどけて、雑誌を読む杏子の胸に顔を埋めようとしたら、全力で拒否された。
リ リーが迷惑そうにソファから飛び降りるのが視界の隅をかすめた。
「なんでだよ~。いったい僕のどこがいけないわけさ」
「そういう女々しいとこやろ」
 杏子は吐き捨てるように言うと、リリーのそばへ駆け寄っていった。
「あ~あ~、うじうじと女みたいなにいちゃんやなぁ」
 このクソ猫めっ。そう心のなかで毒づき、洗面所に向かった。さっきの刺し身の生臭さが自分でも気になって、リステリンでぶくぶくした。ペッ、と緑の液体を吐き出すと、勢いよく水を出して排水口の周りに残っている泡を流した。
 部屋に戻ると、杏子とリリーが電気のついていないキッチンで何やらこそこそとやっていた。目を凝らすと、ぬらっと紫色にてかったちいさなものを、杏子がゆっくりとリリーの鼻先に近づけていた。
 次の瞬間、眼を疑いたくなるようなことが起きた。リリーがその物体を口に入れたのだ。
「あっ…」
 僕は声にならない声を出していた。杏子がゆっくりとこちらを見て、ニヤリと笑った。せっかくリステリンで洗浄したのに、僕の口の中にあの鉄っぽい味がよみがえってきた気がした。やつは食ったのだ、あのまぐろの刺身を。僕が買ってきた、特売の解凍まぐろの刺身を。杏子の手から。
 ぺろぺろと、まぐろの味が残っている杏子の指をやさしく舐めるリリーを見て、僕は人生最大の敗北感を味わった。二人が、いや一人と一匹が、まるで恋人同士のように見えた。僕には決して割って入ることのできない世界が完全に出来上がっていた。
 僕は何も言わずに台所のほうへずんずんと向かった。
 リリーをうっとりとした瞳で見つめる杏子に近づき、彼女の胸を思いきりわしづかみにした。僕の手のひらに、彼女のB カップの胸の感触がよみがえった。
「ちょっ、痛った!なにすんねん!」
 杏子が大きな二重の眼で、僕を睨みつけた。
 杏子の胸を触るのは、本当に久しぶりのことだった。彼女はとっさに身を引いたが、僕は逃すまいと彼女を台所の隅っこの方へ力づくで押しやった。彼女は彼女で、短い腕を精一杯振り回して僕との距離をとろうとした。

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