小説

『種』もりそん=もーりー(『変身』)

 来る日も来る日も、そればかり考えて生きてきた。
 手探りで体を鍛えはじめた幼少期。訓練の効率化に悩んだ少年期。更なる厳しい訓練に打ち込んだ青年期。いつパワーに目覚めるのか。どうすれば目覚めるのか。今の訓練は適切か。もしや自分に素質がないのか。いやいやきっと、きっとまだまだ、まだまだ努力が足りぬのだ。
 田中の人生に、それを考えない日はなかった。まだまだ、まだまだ、と暗示のように自らに言い聞かせ、ひたすら前を、……「夢」を見ていた。
 昔からそうなのだ。今も変わらずそうなのだ。目線が上を向いているのである。彼の双眸から空の青がキラリとすることがあって。それにはそういうわけがあった。
 朝起きて。ランニングして、キラリ。朝食を食べ。電車にて出勤し。空を飛べたら快適なのに、とキラリ。仕事をはじめ。ペンなどを落とすことがあって。手をかざせば吸い寄せられはしまいか、とキラリ。帰宅ついでにランニングしてキラリ。そして夕食を終えれば筋トレに打ち込む。つまり寝床につくまでキラキラキラキラと。
 休日はそれどころではない。朝から晩までサンドバックを叩くこともあれば、朝から晩まで走っていることもある。その間、ずっとである。間断なくキラキラしているのである。そんな毎日。子供のころからの、彼の日常。
 これに転機が訪れる。

 ある日のこと。いつものように仕事を終え、走って帰宅する。その最中のことである。
 気まぐれに競ってみた車が同僚の物であったために、田中は諸々の説明を求められた。何をしているのか。何故こんなことをしているのか。いつからやっているのか。エトセトラ。田中は少し面倒に思いつつも、それらにいちいち答えてやった。「将来の夢」は隠しておいた。彼とて知らないわけではない。自らのプライベートが、他人から見ればどのように映るのかを。それはきっと、この同僚のように、口の端に唾を溜めて問いただしたくなる、そんな碌でもない光景なのだ。そう理解していた。長年の経験と言うべきか、察するものがあったのだ。
 けれど納得はしていない。それとこれとは、まったく、別物であった。走り込みも、筋トレも、漫画で見た技の練習だって、田中にとっては必要なことだった。そもそも楽しくてやっていた。
「それを何だ。たかが車を追い抜こうとするやつがいて、それが知り合いで、目が光ってて、しかも笑っていた? だから異常だと。ふうん。どこが。結構なことじゃないか。楽しそうな光景じゃないか」
 田中を深く知るごとに、人は田中を離れていく。勝手に知って、指をさして、それから決まり文句を残して、そして去る。それがいつもの、学生時代のパターンだった。今は社会人だ。これからは変えていこう。逆に教えてやればいい。この「夢」はすごいんだ、すばらしいんだって。そう田中は考えた。正しく知っていたならば、自分と同じになるはずだ、と。

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