小説

『呼吸をするということ』武藤良太(『花さか爺さん』)

 エントランスの自動ドアを出ると、空気の肌触りが変わった。上に羽織ったコートが役に立たないくらいの風が、容赦なく私達に吹きつけた。目の前に見える白い煙が、自分の鼻息かタバコの煙か、ほとんどわからなかった。
「天に昇っていくところを見たかったんだがね、今頃、この風に乗って、ここいらに来ている頃かもな」
 義兄さんの独り言のようなはつぶやきに、私と義姉さんはそうですねと静かに返した。
 それと同時に空を見上げると、青い板ガラスのような空に、風に乗った薄く細長い雲が、飛行機よりも早く横切っていく。そんな雲を目で追っていると、何やら急に体が熱くなっていくのを感じた。
 ……なんだろう、この胸騒ぎは。
 私は、いてもたってもいられなくなっていった。体の疼きが止まらないのだ。
 ふと、麓から続く道路の街路樹に目を向けると、今にも折れそうな枝の先に、小さな一輪の桜の花がゆっくり開いていていくのが目に飛び込んできた。
「そんな馬鹿な」
 私は目を疑った。
 力一杯に見開いた目で、体を乗り出しながら街路樹を見た。目の前で開いた桜が、枝の根元に向かって次々に開いていくではないか。
 開いては舞っていく花弁が隣の木へ降り注ぐと、またその木が花開き、しまいには、通り一面の木が満開の桜となったのだった。
「義兄さん!義姉さん!桜です!咲さんが言っていたのはこれだったんです!桜がこんなにも!行ってみましょう!」
 私は、街路樹を指さし、義兄夫婦に叫んだ。一目散に桜の方へ向かいたかったが、私の腕は何かに拘束された。
「離してください!咲さん!咲さん!」
 私は、拘束から無理矢理振りほどき、春の様な心地よい風と、暖かな木漏れ日を受け、マフラーもコートもすべて投げ出した。雨の様に降り注ぐ桜の花びらをかき分けながら足を踏み出すと、自分の体が若返っていくのを感じる。体は軽く、腕もこんなにも振れるではないか。そして、聞こえるのだ、あの咲さんの鼻歌が。追いかけよう、そうだ、迎えに来てくれたのだ、こんなどうしようもない私でも、咲さんは桜と一緒に私を連れて行ってくれるんだ。
 燦々と降り注ぐ太陽の下、私は生まれて初めてくるりと踊った。ダンスのステップなど一つも知らなかったが、昔から私の目の前で踊って見せてくれた咲さんのおかげで、最後のこの瞬間は華麗にステップを踏み込むことができた。鼻歌に徐々に近づいていく、今日は私も一緒に踊るから、隣に並んで歩くから、どうか姿を見せておくれ。

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