小説

『呼吸をするということ』武藤良太(『花さか爺さん』)

 クロが吠える。
 暖かい春の景色から、真冬の山梨に引き戻された。窓に吹き付ける風と、続々と別れの挨拶に訪れる咲さんの友人や近所の人々が、一層現実の風景を濃いものへしていた。
 咲さんの実家には、咲さんの姉と、姉の夫と子供家族、他にも桜の葬儀でしか会ったこともない、はるか遠くの親族が集まった。
 咲さんが眠る和室から、ふすまを挟んで隣の居間に親族が集まり、最後の挨拶に来た人々が、喪服に身を包んで訪れる度に、こたつから抜け出し正座をした。仰々しい枕飾りに囲まれた棺桶の中には、きれいに色を付けた花と一緒に、思い出の品々が咲さんの周りに収められている。
 咲さんの顔を見ると、皆、声を揃えて綺麗な顔だ、まるで生きているようだと言った。咲さんの顔の横に置かれたクマのぬいぐるみを見ると、また声を揃えて、桜ちゃんもいい子だったわと口にするのだ。さらに最後には“ご愁傷さまでした”という決まり文句を必ず添えて、それを合図に私たちは、“ありがとうございました”と正座から深々と頭を下げるのだ。
 これをほぼ半日繰り返すと、心の中は空っぽになり、お辞儀をする人形と化す。
 “決まり文句”という表現は言葉が悪いだろうが、今の私にとって、今まで見たこともない人間の最後の挨拶などどうでもよかった。家族を失った後に、深々と“ありがとうございました”など、いったい何のお礼なのか。代わりにこれから来る人数分、私が棺桶の前で“今までありがとう”とひたすら咲さんと桜に伝えてあげたいくらいだ。しかも、挨拶に訪れては、私の知らない咲さんとの昔話を、茶菓子代わりに楽しそうに話して帰る。しまいには、桜の話まで持ち出して、愛しい咲さんと桜の顔が見え隠れする、なんとももどかしい空間にして、この家を去っていくのだ。話をなるべく頭に入れないように、こたつの上に積まれた蜜柑を剥いてみるのだが、いつまで経っても口に含もうとは思えなかった。

 
 咲さんの様子に違和感を覚えたのは、8年程前の夜のことだった。
 咲さんがいつもの様に晩御飯の支度をしていると、急にぽつりと話し出したのだ。
「ねぇ、一樹さん。桜は、桜はどうして死んじゃったのかな、私がしっかりと学校まで送ってあげなかったからかな」
 突然の出来事に、私はそっと広げた新聞から、咲さんへ一瞬視線を移した。咲さんの頬には大粒の涙がボロボロと伝っていた。私はソファーに深く腰を掛け直し、咥えたタバコの火を灰皿へ押し消すと、誰のせいでもない、昔の話はよそうと、冷たくあしらってしまった。

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