小説

『呼吸をするということ』武藤良太(『花さか爺さん』)

 意識して呼吸をすると息苦しく感じる。幸せも同じではないだろうか。

 2月。葬儀は、咲さんの実家の山梨で行われた。実家の庭からは、斜面に広がる葡萄畑が見える。流木の様に弱々しい幹からは、網目状に張られたワイヤーに沿って、自らを覆うように枝を絡ませている。真向いには富士山がそびえ、両手の親指と人差し指で四角いフレームを作るだけで、指の額縁の中には、絵画のような景色が常に納った。
咲さんには友人が大勢いた。あのふわりと暖かい笑顔に恋したのは、私だけではなかった。それでも咲さんは、私のような人間を選んでくれた。記憶というアルバムの、どのページを開いても、あの頃の咲さんしか出てこないようなこんな私を。

 
 私と咲さんには、お気に入りの桜並木があった。
 東京の、都会でも田舎でもない町の片隅、商店街へ続く通り沿いにあるその並木を、いつも二人で散歩したものだ。春風が私達の肌を通り抜けていく中、くるくると踊りながら歩く咲さんの後ろを、一歩下がって私が付いていくのだ。
 咲さんの白いワンピースは、くるりとステップを刻むごとに、ふわりと窓辺のカーテンの様に揺らめき、私に春の暖かな午後を感じさせてくれた。
 咲さんが鼻歌を口ずさむと、私は決まってこう問いかけるのだ。
「気分が乗ってきたね、咲さん。何の歌だい?」
 すると咲さんはこう答える。
「今作った歌なの」
 咲さんはここで必ず振り返り、例え凍えるような真冬でも、春の様な笑顔を私に見せてくれた。
 デートの終盤は、決まって桜並木に面した喫茶店に入った。顎髭の長い小柄なマスターが、一人で切り盛りしている店内。カウンター席の正面にずらりと並ぶ洋酒のボトルと、白い壁に飾られた、映画スターの妖艶な笑み達が、アルコール入りのチョコレートの様に、私達を少し背伸びさせた。一番奥の窓際の席という特等席に座りながら、外の桜を横目にコーヒーをすするのだ。海外の音楽なんかに興味はなかったが、咲さんの前ではおしゃれな洋楽好きを装い、昨晩、必死に覚えたギタリストや女優の名前を、タバコをふかしてはひけらかしてみせるのだ。
 真剣な表情で、まっすぐ私を見つめる咲さんの眼差しと合図地が、私をたまらなく高揚させた。聞いたことのないレコードから流れる柔らかい音と、咲さんの熱い眼差しは、まるで麻薬のように、苦いだけの黒い液体に甘みをつけて、私の体に染みていった。

 

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