小説

『小さな私の思い出』加藤饅頭(ヘルマン・ヘッセ『少年の日の思い出』)

「森の昆虫ってどこにいくんだろ」今中が言った。
「さあ」
「別の森?」
「どうだろ」
「それとも死ぬ?」
「わかんない」
「わかんない、じゃ済まないよ」 
 我々は川へ出て、空が見えやすい流れの真ん中まで、浅瀬の岩を伝っていった。ちょうど五百発目の、金色のしだれ柳が舞い落ちる締めくくりの花火まで、二人はその中洲に留まった。最後の閃光が消えていくと、我々は向かい合ってキスをした。今中はいつの間にかヘアピンを外していて、色の抜けた前髪が瞼に垂れかかっていた。目の周りには薄くそばかすが残り、ふっくらしたこめかみに汗の粒が浮かんでいた。彼女は肩紐がレースになった白のタンクトップを着て、カーキのカーゴパンツの裾を捲り、サンダルを脱いでいた。足の細い指先がさざなみのしぶきに濡れて、白いくるぶしに濡れた草のかけらがくっついていた。電車が遠ざかって、広場の太鼓の音が小さく聞こえるようになると、今中は私から離れて俯いた。彼女の目に入ったのは、岩の裂け目からからびっしりと生え出た、腐ったブロッコリーみたいな苔の表面だけだった。



客がトイレから戻ると、私は小さな私の思い出を話し始めた。

 
 以前、風呂場で鼻をつくにおいがしたのでよく見ると、浴槽の隅で小さな私が排便していた。私は蛇口をひねって小さな私を排水溝へ流した。便のにおいがなかなか消えないのは知ってのとおりで、身体をきれいにしているのに、においのせいで、だんだん自分が汚れていくように感じるものだ。そういう場合に、私は使うことにしているものがある。それは、ハエがいなくなるスプレー。
 ハエがいなくなるスプレーを、必ずしもハエをいなくするために使う必要はない。そのスプレーがハエよりもむしろ便のにおいに対して強いことは、最近になって皆が知り始めていることだと思う。風呂場で放射するのに抵抗のある人もいるかもしれないが、どのみち流れて消えてしまうだけのこと。中和というのかなんというのか、便のにおいがあったようななかったような、不思議な、エアポケットにはまりこんだ気分にはなるが、とにかくお風呂を再開できる。

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