小説

『3番ホームで』宮本ともこ(歌舞伎『勧進帳』)

 そういうと慶子はショルダーバックから手帖を取り出した。あたかも、悪魔祓いが十字架をつきつけるように、ナマハゲの顔に手帖をつきつけた。
「セールス先をメモしてあります」
 慶子はいかにも、堂々としていた。開いたページの綴目に親指を挟み、残りの四本の指をカバー添えて、屏風のように手帖を立てた。手帖の中味はナマハゲには見えない。ナマハゲは革の匂いに鼻をひくつかせ、トロンとした顔つきになった。だが、慶子の口から出たのは、色気とは無縁の呪文のような単語の羅列だった。
「石川県白山市旧吉野谷村、吉野谷市民サービスセンター。旧鳥越村、鳥越市民サービスセンター。旧白峰村、白峰市民サービスセンター。富山県富山市旧山田村、富山市山田総合行政センター。旧細入村、細入村商工会」
「あ~? 意味わかんねぇぞ」ナマハゲは慶子に抗議した。
 慶子はバカにしたような目つきをしてみせた。
「明日の商談先リストです」
 慶子は手帖のページを一枚めくった。
「明後日、新潟県阿賀町役場本町。出雲崎町町役場。津南町、津南町役場」
 どれも町や村の名前だ。慶子の背後に立つ私は、思わず、手帖を覗き込んだ。
「こ、これは……」私は唸った。
 どのページも真っ白で、唯一書かれている文字といえばさっき、私が教えた東北行きの列車の時間だけなのだ。私は度肝を抜かれた。長年、車掌として働く私でさえ、沿線の駅名をよどみなく復唱することは難しい。私は慶子にこの場をやり過ごそうとする執念を感じた。

 大学生のグループがナマハゲと慶子にスマートフォンを向けている。この騒ぎを写メして、SNSに流すつもりなのだろう。よっしゃ、引き受けた。そっちは私が抑えてやろう。
 そう考えた私だったが、踏み出した足を止めた。あることに気がついたからだ。ナマハゲとぽっちゃりの背後に立つ三人目の乗客。あれはあの口うるさい青年秘書、県知事の長男ではないか。やはり、経義は彼の弟なのだ。ナマハゲとぽっちゃりを差し向けて、ふたりを連れ戻しに来たのだ。長兄は父の地盤を継ぐ政治家の卵として、地元に顔を売ろうとしている。悪い評判には敏感になるはずだ。ひと目は抑止力になる。
 私はあることをひらめいた。私は車掌室に戻って、マイクを口元にあてた。
「この列車はまもなく、日本海の絶景スポットを通過します。カメラのご準備はよろしいでしょうか」

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