小説

『こんな夜には寒戸の婆が』山本歩(柳田國男『遠野物語』)

 私は再び酒を飲もうとした。開いた口に、風が流れ込んできた。淡い、しかし確かな味がした。風の味は奇妙なものだった。軽く、危うげな、とでも形容しようか。余りに切ない味だった。
「よしましょう」私はもう一度言った。伊藤さんは初めて、慌てた様子を見せた。
「いや、そんなつもりじゃない……そうだな、あなたの妹は」
 また、つまらない話を口にする。私の妹に起きたことは、一帯では誰もが知っている。初対面の折、伊藤さんが私の名前にすぐ反応したのも、別段私の文名のためではないということだ。
「ええ。妹は、神隠しにあいました。でも、もうずっと昔の話です」
 そう、ずっと昔の話なのだ。私は七つで、妹は三つ年下だった。ある風の強い日、彼女は忽然と姿を消した。寒戸の言い伝えのように草履を残すこともなく、跡形もなく妹は消えた。父は神隠しだと嘆いた。村の人々も、天狗の仕業であろうと同情したものだ。
 遠野の天狗は恐ろしい。それは年寄り連中の口を揃えるところだった。例えば、松崎村にある山は、天狗森と呼ばれていた。そこには天狗が住むと言われていたのだ。天狗は巨体で怪力、真っ赤な顔に、大眼を爛々と光らせている、とされていた。天狗を怒らせた者には惨劇が待っている。昔、愚かな男が天狗に喧嘩を仕掛け、しばらくしてから四肢をもがれた死骸で発見された。そんな伝説も残るから、行方不明者が出れば、天狗の神隠しだと噂もされた。
 真っ赤な顔の大天狗、癇に触れりゃ隠される、手足もごうか嫁にとろうか――近所でそんな歌が流行っていたことも知っている。我が家のことを歌っているのだと、容易にわかる。伊藤さんも大方、そのような噂なり歌なりを、伝え聞いたことがあるのだろう。妹がいなくなったことは悲しかったが、私にはこうした環境の方がよほど不快だった。
「妹のことは、もう忘れたようなものです」
「いやあ……まだ生きているかも知れませんよ。神隠しされた子どもがひょっこり戻ってくるなんて、それこそよくある話だし、案外天狗のもとで気楽にやっているかも知れん。そう思っておきましょう」
 伊藤さんは無理に笑顔を作っていた。ばらばら! 大粒の雨が飛び込んできた。私は彼に付き合って薄く笑いながら、窓をぴしゃりと閉めた。

「面白い話をしましょうか」
 ややあって、伊藤さんはそんなことを言った。私の様子を窺って、興を添えるつもりらしい。
「僕は昔、河童だったんです」
 表情は笑っているが、声は静かだった。深い淵に沈んでいるかのように静かで、危うくそのまま聞き流してしまうところだった。

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