小説

『コンの銀杏』鴨カモメ(『ごんぎつね』)

 コンの耳は兵十の母親の声がよく聞こえるようにピンと立った。コンはこの母親が苦手だ。兵十に優しく微笑みかけるその顔を見ると、コンの小さな胸がチクンと痛む。特にひどいいたずらをした時は、胸の痛みが増すような気がした。
「そんなことばかりしていたら、あの子もいつか撃たれちゃうんじゃないかね。あの子のお母ちゃんも天国で心配しているだろうに」
 兵十の母親が憐れむように言うと、それを聞いていたコンの耳は元気なく垂れさがってしまった。
「あぁ、なんだかしらけちゃったな」
 コンは誰に言うでもなくそうつぶやくと、ひとりトボトボと山へ帰って行った。

 それから何日かたった日のこと、コンは川で魚をとっている兵十をみつけて、いたずらを考えていた。
「兵十に捕まったかわいそうな魚でも逃がしてやるか」
 しかし、兵十の網の中には魚が1匹も入っていない。不器用な兵十には漁の才能がなかった。
「なんだよ、つまらないな」
 それでも兵十は一生懸命魚を捕ろうと、中腰で水面を睨みつけている。その体勢はちょいと背中を押せば倒れてしまいそうだった。
 コンはにやりと笑いながら兵十の尻を押す。すると兵十はザバーンと音を立てて、まだ冷たい川の中に頭から突っ込んだ。その様子を笑い転げてみていたコンであったが、それが取り返しのつかない悲劇を呼ぶとは思ってもみなかった。

「あのおばちゃんが死ぬとはなぁ。兵十もこれでひとりぼっちか」
 コンはその耳を疑った。コンがそのことを知ったのは、村人たちが話すのを盗み聞きした時のことだった。村人の話では、あの日、家にずぶ濡れで帰った兵十は、それが原因でひどい風邪を引き、兵十の看病をした母親がその風邪をもらってポックリとこの世を去ってしまったというのである。
 コンは罪悪感で押しつぶされそうになった。だが狐のコンには兵十に詫びることも、側にいてやることもできない。
「あぁ、オイラが人間だったら兵十に何か償いができるのに」
 コンがつぶやくと空から一枚の銀杏の葉がふわりふわりと風に乗り、舞い降りてきた。コンはその葉を手に取ると、母狐がいつの日か、葉を使って人間の女に化けていたことを思い出した。

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